C.Masak is Tumblring!

Chico Masak, a homosexual asian male bitch/butch from CA/NZ/JP

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№100 ♀魁♀さん目撃談
最初

ぁぁあああ~!!!
今日はとっても素敵なモノをお目にかかりましたよ!嬉C~♪♪

あのですね、あのですねっ!!

今日私はある場所に用事があってバスに乗ってたんです。
そしたらめちゃくちゃ格好いいお兄さんが私の隣に座ってきて(席がなくて)、
だけどそのお兄さん(私好み)ずいぶん落ち着かないんです。
顔色が悪いもので、気分でも悪いのかなと思って「大丈夫ですか?」と
聞いたら、お兄さんはしゃきっと姿勢を伸ばして、「あ、大丈夫です…」
と弱弱しく答えました。だけど、そのうちまた前かがみになってソワソワ。
窓の外を(私越しに)見てはソワソワ。次第には腰を浮かせたり
小さく足踏みをしたりと・・・そう、そうなんです。

お兄さん、オシッコ我慢してるんです!!

うっわ~マジ!?マジで!!??
興奮しつつも、私は外見通りのクールな女を装い、横目で観察してました(笑)
格好いい男にお漏らしをして欲しい!!のが私の願望(いや、密かな野望ですらあった)
のですが、実際に苦しんでる(しかも私好みの)お兄さんを見ていると
どうしても居た堪れなくなってきました。
こんな大勢の前でお漏らしなんてしちゃったら、傷付くよね。
嗚呼!だけどこんなチャンス滅多にないわ!!

ど、どうしよう~!!!!

そうこうしている内に、お兄さんは前かがみで体を前後に揺すって、
もう限界そうでした。堪えてるみたいですけど、息が荒くなっていて、
何度か立ち上がりかけてはやめているようでした(降りたかったのかな?)。
私はと言うと、そんなお兄さんに興奮しつつも、心配もしてました。
だけどお兄さんが膝を擦り合わせながら突然「んん…」と小さくうめきました。

もう限界なんだー!!!

そう思うが否や、私はバックから、先ほど衝動買いしてしまったバーゲン品の
タオル(5枚)のうちの3枚をお兄さんに差し出してました(私これでも学生)。
「おしっこならここにしちゃって下さい!」その言葉に驚いたのはお兄さん。
「あっ…いえ、あの・・・」と言い訳を考えているみたいでした(可愛かったわあvv)
「いいから!漏れちゃいますよ!」私が無理やりタオルを押し付けると
お兄さんは躊躇った様子を見せましたが、慌ててベルトを外しだしました。

ああ、これで終わったわ…私の夢・・・うふふ、いいの、私、良心に生きるわ・・・

何だか安心したようなガッカリしたような感じで、せめてお兄さんのモノを
冥途の土産に見納めてやろうと(まだ死なねぇし)横目で見てました。

最後の前
ここからは中継でお送りします(ぇ
慌てるお兄さん。手が震えてうまくベルトが外せません!
おっと、ここは何とかクリアーしたようだ。
次の難関は、ファスナー、ファスナーです!!しかしこれも少し手間取った
ようだが外した。後は下着を下ろすだけ。おおっと下着に手が伸びた~…

が、しかし!!

下着を突き抜けてオシッコが侵食してきているではありませんか!
色が変わる灰色のボクサーパンツ…。
お兄さんは慌ててしまって自分がする行動がわからなくなってるのか、
股間を手で抑えてました。でも、すぐにはっとしたように
下着の上からタオルをあてがってました。

だけど、これで安心しちゃあ~いけませーん。

随分溜め込んでいたらしいオシッコは、タオル3枚(結構厚い)のみでは
吸収できなかったのか、お兄さんの指の隙間から流れてきました。
「あ…ああっ・・・あ・・」と何かに怯えるような声を出して、泣き出しそうな
顔でお兄さんは一生懸命堪えている(止めようとしてる?)ようでした(激可愛い!!)
お兄さんのオシッコはあっと言う間に足元に小さな水溜りを作ってました。
その後のお兄さんは、じっと縮こまって真っ赤な顔のまま俯いてました。

もう、可愛くて可愛くて・・・萌えですよ、萌え!!!!!(爆)私は残りのタオルで素早く足元のオシッコを拭き、もう一つでお兄さんの体を
適当にですが拭いてあげました。私が「大丈夫ですか?」と聞くと「はい・・・」
と消え入りそうな声で(まあ、エロヴォイスだわ、この人!)言い、その後は無言でした。
そうして、次のバス停に停まりましたが、お兄さんはそのが目的地じゃないのか降りません。
私はお兄さんに、とりあえず下りるように勧め、私も降りました。
バスを降りるとお兄さんは泣いていたようで、
「すいません・・・タオル…すいません、弁償します・・・」といいつつもお金を
持ってきていなかったらしく、恥ずかしさからかずっと俯いてました。
私は大ラッキー☆☆で上機嫌でしたので、「とにかくお手洗いに行きませんか?」
と言い、お兄さんを引き連れてトイレへ向かいました。

実はまだ続くんです、はい!

トイレに向う途中です。お兄さんが突然立ち止まってしまいました。
気分でも悪いのかと顔を覗き込んだら、頬がフルフルと震えていて、涙が零れてました。
気が弱いお兄さんなのね・・・と思っていると、足に水しぶきが飛んできて・・・
んっ?と足元を見ると、出し切っていなかったのかおしっこが小さな水溜りを作ってました。

お兄さん、慚死

私、失血死(鼻血により)

最後
立ち尽くすお兄さんをトイレ(公園にある男女兼用の)に連れて行き、
私は近くの店の安い服を購入して戻りました。
そして、泣きじゃくっている(もはや涙ほろりの次元じゃない)お兄さんをあやしながら(ぇ
濡らしたタオルと購入してきた服を渡しました。
それから、中々出る決心がつかないのか全然出てこないお兄さんに
「もう大丈夫ですか?」と呼びかけ、尚もしゃくり上げているお兄さんにハンカチを
渡し、親切にもお兄さんのお漏らしズボンと下着を洗ってあげて、
袋に入れて手渡しました。

それからはお兄さんが落ち着くまで公園のベンチに座って、背中を擦ったり
「気にしなくてもいいですよ。私の友人も先日同じことあったんですよ」とでっち上げ
ながら慰めました。
そのお兄さん、絶対大人しい人ですよね!確かに少々女々しいかもしれないが、
可愛くて堪らなかったですよ!!!!

数分後落ち着いたみたいで、私が「もう平気ですか?」と聞くと
「はい…すみません・・・あの、お金を返したいんですが・・・」と若干掠れた声で
(は、ハスキー!そしてエロヴォイス!!)いいました。
私はまた逢う口実が出来ると内心大喜びしてましたが、お人よしな私の口が勝手に
「いえ、気にしないで下さい。」と言いやがりました(ちくしょー)
だけどお兄さんも食い下がる。「お願いします、返したいんです・・・」
あらあら義理堅い事。と思い、仕方なく(本当は大喜びで)連絡先を教えました。

そ・れ・で!!

そのお兄さんからさっき(というさっきでもないが)
電話があって、逢う日にちを決めました。
恥ずかしいのか震えた声がまた可愛らしかった・・・。
お兄さんの声を聞いている耳側が鳥肌立った・・・。
それも電話での口調が可愛らしくて、

私「もしもし」(めちゃくちゃクール)
お兄さん「あっあのっ…あの、今日、あの…バスで・・・」(凄い慌ててた)
私「(まあ、恥ずかしいのね!)ああ、本当に電話下さったんですか!」(興奮)
お兄さん「はい…水島啓吾(仮名)と言います・・・本当に、ありがとうございました…」
私「(声震えてるじゃん!激カワ!!)あ、どういたしまして。河野魁(仮名)です。」
水「その…お暇なときでいい…んです…けど・・・いつお返しすれば・・・?」
私「ん~…今月は忙しいので、来月の日曜日は大丈夫ですか?」

ってことで、来月日曜日、私の家で逢う事に・・・。
絶対家に上げて、仲良くなってやる!!!それにしてもこのお兄さん、絶対甘え上手!
彼が女だったら、男にモテまくってるはずですよ!!
潤んだ瞳で上目遣いはよして・・・押し倒したいわ!!!(女じゃねぇじゃん)
もう、どうしても聞いて欲しくて・・・長くなってすみませんでしたぁ(;^_^A

http://olive.zero.ad.jp/~zbg52708/witnes5.htm

2009-07-17 日本の子供(は)ポルノ、いいね?

最近なんかおぼろげながら日本でいうところのジェンダーフリーっていうものの意味が分かってきたよ!やった!

それで考えるに日本の体制と体質のままで所謂ジェンダーフリー(つまり性別がないことにしよう)とか言ったら、それはただ今までのようにそしていままで以上に揺るぎ無い男子の権力が補強されるだけなんだけど。ポルノグラフィー規制とかフェミニズムの流布定着の「許可」を男に求めても、どうにもならないのはわかんないのかなー。

ポルノグラフィーの主題が児童でも、幼児でも赤子でも、言論の自由のためにはポルノの自由を守ろう、と言っている人たちは、何言ってんだ?っていうか、そういう珍しいおっかねえ国として存在するのは勝手だけど(私関係ない)。日本の国は男が寝ながら女子供小突き回して得た利益で成立している制度なんだから、そこで何か変えるためにはどこの誰にも分かるぐらいの強引な変化が必要なのだ。それを男に聞いても、うんとは、言わないよ。日本の男子なんて。いうわけないじゃん。子供ポルノグラフィー無くたって死にゃしないだろ。それをどうしたいかを決めるのは日本の人たちだろうけど、それを男の許可を待っていたらそれは旧態依然の状態から何も変わるわけがない。言論の自由、とか言って、日本にどんな言論の自由があんの?結局それはポルノグラフィーの自由の保護の域を出ない。

言論の自由って与えられるものでもどこかに出来上がっているものでもなく、それを行使してこそ、或いは行使するためのあらそいの果てに、獲得するものですよ。それを、自動ポルノ愛好のために誤用しているのはさすがに。

ポルノグラフィーというものは人類の歴史と同義。つまりどんなに禁止してもなくなることはない。だから、法が、しかも子供の権利を犠牲にした上で保護する必要なんて全くないだろう。それが分からない日本怖すぎなんだけど。この線の言論(言論の自由のために自動ポルノ権を守ろう)ことが奇怪と思われないのはやはり日本の風土で利害の葛藤が金輪際闘われた試しがないからだろうな。結局日本の国は物凄い徹底した共産主義で、昔ヒロポンで人を働かせたように、今日はポルノ愛好が現在のモデル主権者の生きる動機となっている、という論理が演繹出来るけど。だから試しに子供ポルノ保持している奴どんどん捕まえる方向に行ってみるべき。で世の中がどう変わるか記録したら日本も世界に初めて貢献出来るんだけどな。そこでそれでも自動ポルノなしで生きられない人たちは身体と自らの人生張って、再合法化のために闘ってみる、と。自動愛、用事性愛、ユナイト!とか言って。

LINK

「ニートのあした」宣言

 きょうも しごとに いきました。それでも わたしはニートです。

 はたらきたくない。きょうは、やすみたい。そんなとき、あなたは すてきなニートです。

 やすみたいけど しごとに いくか。それでも あなたはニートです。そういった ゆるい連帯、資格を とわない社会運動が必要なのです。

 なぜ労働があるのか。なぜ、はたらかざるをえないのか。その必要性はマッチポンプなのではないか。たとえば、肉食を 例に かんがえてみよう。いま、ほとんどの畜産は穀物や大豆を エサにしています。肉食は たんなる ゼータクにすぎません。べつに必要のないものです。たまに たべるくらいで いいのです。けれども、それでも肉を たべることによって むだに しごとを ふやしているのです。

 DiY(Do it Yourself)、「自分で つくる」。 いっしょに手づくりする。いろんなものを つくってしまう。そうすれば たいがいのものは手に はいります。ゴミとして すてられてしまうものを 有効利用すれば、ほとんどのものが手に はいります。ひろう。つくる。わかちあう。それだけの原理で わたしたちは ほとんどの労働を ぶっこわすことができるのです。

 かんがえてみてください。どうして あなたみたいな ひとにさえ しごとが あるんですか。それは、ニートが しごとを ゆずってくれたからです。
 かんがえてみてください。全世界のニートがゼネスト(一斉ストライキ)ならぬ、一斉就労したとしたら! あなたは たちまち しごとに あぶれます。ニート革命によって、あなたは しごとを うしなうのです。
 かんがえてみてください。ニートが ほんきを だしたら どんなに すごいかを。

 おい! ニートが どんだけ充電してると おもってやがる。元気玉で いえば東京ドーム200コ分だぞ! おそろしいだろ! おまえなんか、ふっとばすんだからな! 降参しろ! あきらめるんだ! そして、しれ! おもいしるんだ。ニートには かてないと。さあ。ニートに おもいを はせるんだ。そしてニートしよう!

 それでも しごと「したい」なら、われわれは ひとつ、ささやかな要求をする。世界のニートにカネを はらうんだ。おかげで就職できましたと、感謝のカネを はらうんだ。だって、おまえが給料を もらえるのは、すべてニートのおかげさまじゃないか! 給料を くれるのは職場だって? ふざけるな! 就職できなかったら、その給料もらえてねーじゃねーか! わかってんのか。アパートの ひとりぐらしだって そうじゃないか。実家に すんでくださっている ひとたちが いるから、あなたに すむところが あるんだ。なにが自立だ。わたしたちは、いつでも どこでも たすけあって いきているんだ。ともだちなんだ。人間は、うまれたときから たすけられっぱなしなんだよ。

 「自立」って なんだよ? しごとして、ひとりぐらしして、そうしてる やつが「自立してる わたし」なんていう、幻想に まどろむための「自立」なら、根こそぎ ぶっこわすべきなんだよ。破壊するんだよ。それは ニートが、障害者が ずっと主張してきたことじゃないか。なにが「労働者よ団結しよう!」だ。ふざけるな。そもそも労働はアクなんだよ。諸悪の根源なんだよ。

 いいかげんにしろ! なにが「労働は義務」だ。たくさんのボランティアに ささえられて生活しているくせに、えらぶってんじゃないよ。ニートは どうしても はたらきたい ひとに「しごとを わける」っていうボランティアを しているんだ。わけてもらってるのに自分は わけないって どういうことだ! ふざけるな。こっちは しごとを ゆずるから、カネを わけろって いってるんだよ。

 あまりにも ごもっともな はなしじゃないか。世界のニートたちよ、連帯しよう。そして強制労働を おしすすめる わるいヤツらに請求書を おくりつけよう。それこそがニート革命であるはずだ。ニートは、革命なんだよ。

 ニートは胸をはる必要すらない。なぜなら、ニートを うみだすのが強制労働社会であるからだ。勝手に「ニート」と よばれてしまったのだ。いちいち「ほこり」なんて もつ必要はない。ただ、ふつうの顔を していれば いいんだ。だって、おかしいのは強制労働社会だもん!

 2月10日はニートの日! そして、2月11日は「ニートのあした」!


 革命は もう はじまったぞ! さあ、強制労働社会に請求書を おくりつけよう! おもいしらせるんだ。ニートが マジになったら、どれだけ おそろしいかを!


 ふざけるな、強制労働社会! ドレイ労働は、もう たくさんだ!

「ニートのあした」宣言
人体というものはそのつくりとしてそもそももろいものです。壊れ易い。だから壊れるときはあっさり壊れます。それを小細工して安全にしようとするとおっさんになります。あるいはおっさんという権力です。おっさんというものを定義すると、自分の身体だけ安全にするために他人の身体を苦しめて長生きすることですね。長生きは結構なことだが、それが他人の身体の犠牲になりたつ、それが制度化すると困る。だから、私はいつも言いたい。誰の身体が安全か。誰の身体の犠牲のもとに。誰の身体がいい思いをしているか。誰の身体の苦痛のもとに。
2008-07-22 安全な身体と危険な身体

4 黒鳥と一角獣

 冒頭にエピグラフとして引いた石田の文章に登場する一角獣が、はじめて目を通したときから気にかかっていた(引用では省略したが、やおいがゲイを「一角獣のような幻の存在」として描くと発言しているのがキース・ヴィンセントであることは割註で示されている)。後註によれば96年の「ユリイカ」での小谷真理との対談からの引用で、今、本が見つからなくて文脈は確かめられないのだが、仮に孤立した比喩として「一角獣」というものが選ばれたのだとしたらそれはいかにも非日本的だ。つまり、そのエキゾチシズムにおいて。だが、少女マンガを考慮に入れれば、むしろ日本人読者にとってそれはすでに親しいイメージであるから、そうした事情をよく知っているヴィンセントが日本人のためにこの例を選んだとも考えられる(だが、そもそも日本人であればこれは例として選ばないと思われるので、一角獣が西洋の文物であってさえ、ここにはオリエンタリズムの匂いがする)。

 もしこれが、アメリカ人であるヴィンセントが彼のように日本の事情に詳しいというわけではないアメリカ人の聴衆に向かい、日本では女性を主たる書き手/読み手とする「やおい」というものがあり、そこではゲイが一角獣のような幻の存在として描かれています、とでも発言したのだとしたら、「一角獣」が日本で知られているか知られていないかはもとより一般アメリカ人の知識/関心のほかであろうから、私が上に書いたような問題は生じず、「一角獣」という比喩は「現実には存在しない生物」というデノテーションのみを聴き手に与えて、いかにも幻の存在らしくすみやかに消え去るだろう。

 しかし、日本の雑誌に載った日本語による対談の中の「一角獣」は、それにまつわる少女マンガ的コノテーションゆえに、私のようなよそ見をする読者(肝心の「表象の横奪」問題へまっすぐ行かない)にかくのごとき道草を食わせることになった。そもそも「一角獣」というのは「不愉快」な代物だろうか? 石田論文では直前に章のエピグラフとして「化け物にされてしまう[ゲイの]友人」云々という溝口彰子からの引用が置かれているため、その取り合わせから、やおいはゲイを「化け物のような存在」として描いており「不愉快」だと読者は容易に読みかえることができようから、「一角獣」という語は単に黙って掌に置かれる「貨幣」として消費され意識に上ることさえないのかもしれない。しかし、道草を食いながらも見逃さない私のような読者には「一角獣」がひっかかるのだ。

 不意に私は思い出した。「幻の存在」というべき自らの象徴として、ある動物(架空のではないが)を選んでいた日本人作家がいたことを。性的にも、政治的にも、ここは「流刑地」であり自分の居場所ではないという感覚を持ちつづけていた。自分を受け入れない「地上」への呪詛は、彼をロマン主義の末裔にし、「幻想小説」へと導いた。中井英夫。このマイナー・ポエットが自らの疎外感を託した動物とは黒鳥だった。三島由紀夫とほぼ同世代だった彼は、戦後日本に対する違和感を〈幻想小説〉と呼ぶ形式であらわした。だからファンタジーとしての一角獣も許されると言おうとするのではない。直接的な変革が不可能と思われるとき、人は望みを地上でないところに向ける。「ファンタジー」とはつねに社会的なものである。自律=孤立したファンタジーなどありえない。

 その意味でも、ここは自分の故郷ではないという意識を終世持ちつづけたロマンチスト中井の作品が、実は人並みに(ここでは人=男のこと)ミソジナスであったことは注目に値する。言うまでもなく、伝統的な文学的意匠においても、女であるとは地上に縛りつけられることと同義だった。そして、男が(そして男同士の関係が)理想的な高みへの飛翔を目指すその分、取り残される女たちは対照的に、粗野で、惨めで、「現実的」でなければならなかった。その意味で彼にもまた逆説的に地上と縁を切ることは不可能で、彼の憎む地上の象徴としての女たちの表象を「横奪」しなければならなかったのだ。これは、男同士の仲を引き裂くものがつねに邪悪な女である小説を書いた(中井が短歌雑誌の編集者として見出した)歌人の塚本邦雄の仕事とも軌を一にする。

 それでも(それゆえに)中井には多くの女性読者がついた(彼女らには中井以上に地上に居場所がないかもしれないことは、彼には思いもよらないものだったとしても)。その一人から、萩尾望都の『トーマの心臓』を、読んで下さいと渡されたという話を中井は書き残している。『トーマの心臓』を読んで中井は当惑したという。どうして自分にそれが贈られたかわからなかったのだ。〈私たち〉にはわかるし、彼がそれを受け入れることのできなかった理由もわかる。彼の女性読者こそ、通常の男流作家とは異なる彼の世界にオルタナティヴを、こことは別の場所への入口を見出していたのだろう。たとえそこが原理的に「女」には拒まれている場所だったとしても。自分の作品がそうした感受性と通底することを彼が認めえなかったのは残念なことだ。作品の上では制度的ミソジ二ストであった彼の作品が女性たちに「誤配」された結果、反動的なものでなくなる可能性に彼は気づけなかった。あるいはそれは彼の作品が未来にまで生き延びる唯一のチャンスかもしれないのに。

 これは石田の言うやおい/BLの「自律」とも関わる話だが、谷川たまゑの「女性の美少年嗜好」論は、やおいに関して、このようなロマンチックな「地上」からの切断(彼女の場合はそれは心理学的装いの形を取った)——それはとりもなおさず、社会的文化的な影響及び影響を与えることからの切断である——によってファンタジーとしての「やおい」(彼女はそうは呼ばないのだが)を「自律」させ、現実の男性同性愛とは無縁なものとしようという試みの草分け的なものだ[彼女の議論は水間碧名義で一巻にまとめられており、それについてはブログで触れたことがある。http://kaorusz.exblog.jp/4212121/]。もう何年前になるか、ほかならぬキース・ヴィンセントがやおいについての講演を行なったとき、彼の手元に置かれていたのは谷川が「女性学年報」に載せた論考のコピーの束だった……参考資料が最悪、と思わずにはいられなかった。

 中井英夫のケースから思い出した話が二つある。一つは、佐藤亜紀がマリオ・プラーツから引いている例なのだが、十九世紀末にボッティチェルリの真作として通用した作品が今日では素人目にも違いがわかるという話だ。贋作者が見ていたボッティチェルリは「同時代の大多数の鑑賞者」の目に映っていたボッティチェルリで、贋作者はそれを忠実に再現した。だが、時が過ぎると、絵はそのままなのに見る方の目が変わってしまい、それがボッティチェルリに見えたことが不思議に思えるくらいなのだという。「それでもボッティチェルリの真作は快楽の装置として機能し続ける」(註7)。中井の場合、彼もまた「同時代の大多数の」(註8)彼の読者のようにしか彼自身の作品を見られなかったため、これはあなたの作品に似ていると『トーマの心臓』を差し出されても、唖然とするしかなかったのだろう。

 私が連想したもう一つの例は、これも絵画だが、アンリ・ルソーと同時代に官展(サロン)で名声を博していた画家たちの作品のその後の運命である。周知のとおり、正規の美術教育を受けなかったルソーは、アンデパンダン展によって絵を発表する機会をはじめて得た。では、ルソーを拒否したサロンの、入賞者である画家たちの絵はどんなもので、その後どうなったのだろう? 彼らの名前は忘れられ、今日その絵を見ることすら難しいらしい。なぜなら、「多額の費用を使って国家が買い上げた彼らの絵の多くは、美術館の倉庫の奥深くに積み重ねられたままになっているからである」(註9)。しかしルソーは、同時代の凡庸なアカデミシャンの作品を素晴しいと本気で思い、忠実に模倣すらしつつ、結果としてはあのような絵を描き上げた。

生前そこそこの評価を得た、恐らくは現在でも熱心な少数の(少数であることを誇りとする)愛読者を持つであろう中井は、ある小説で主人公を、実用に堪えぬ埒もない幻想陶器と言われる作品を制作する陶芸作家に設定していたが、結局のところああした陶器は、その死後、倉庫に押し込められてしまったのではないかという気がしないでもない。すでにその贋作(エピゴーネンと言ってもいい)は本物とは見えなくなっているのかもしれない。ルソーのように目は別のものを見ていたとしても、時の経過による視覚の変容を越えて「快楽の装置として機能し続ける」だけの「強靭」な作品を彼が書きえていたかどうか。それは結局のところ、どれだけそれが「横奪」に、異なる読みに堪えうるかにかかっていると思う。中井は彼の未来の読者の訪問に気づけなかった。それが仮の分類である「幻想小説」の枠を離れて『トーマの心臓』と並べて置かれるとき、別様に見えてくるであろうことを知らぬままだった。未来の読者の目には——いや、未来を待つまでもなく、〈女〉という異人の目には——彼の作品がそう見えるということを理解せず、理解しようともしなかった。

 ストレートであれゲイであれ、男が認めたくないのは、女もまた男であるということだ。自らのうちなる女性性を認めることができる男性も、逆に現実の女もまた自分と同じとはなかなか認めえない。中井もまた、女の側からの——“身の程知らず”の——アプローチを受け入れ、少女マンガに自らの分身を見出すことはついにできなかったのだ。 

註7 『小説のストラテジー』
註8 これは数の問題ではない。女がマイノリティなのは人数の多寡によるのではない。文化とはつねに男の文化である。
註9 国谷公二『アンリ・ルソー 楽園の謎』

5 表象の流用

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これは男の世界で男が当事者なのだからと、ずっとアクセスすることを禁じられてきた女たちが、男の表象を「流用」しているのだと私は思っています。
実は「横奪」も「流用」もappropriationという同じ単語だったりします。(鈴木からAさんへのメール)
=====

 「もちろん異性愛男性こそが女性イメージを圧倒的に性的な存在としてパタン化し領有してきたことは論を待たない。そのため「女の側だって少しくらい好き勝手してもいいのでは」という声もある。ただしもちろん、そういった考えは溜飲を下げる以上の効果はもたらさず、生産的な批判ではない、と考えられている」(石田、前出)

 石田はこのように述べるが、男性による女性イメージの「領有」は、なにも“異性愛男性”に限った話ではない。何年か前、タレントのピーコが、深夜番組で「爆笑問題」相手に、「[ピーコは]女らしい」「ピーコさんてほんとに女なんだね」といいった反応を引き出すような自己規定を繰り返し、好きな男の顔を見ているだけでいい、何もしなくてもいい、と自らがrepresentする女性主体の脱性化(これは異性愛男性による性的対象としての女の“パタン化”と矛盾しない)をはかりつつ、ホモフォビックなヘテロセクシズムの強化(問題なのはピーコが生物学的に女ではないことであるかのように言われ、ピーコの男への愛は女が男に対する愛と同じものとされる。すなわち、“真の”男から男へ向ける欲望は存在しないことになる)を行なっているのを目撃したことがある。ゲイ男性が女性性をも兼ねそなえた存在としてふるまうことで、かえって生物学的女性の本質化が促される効果を生むのはよくあることだ。(これはピーコではないが)はなはだしい場合は生物学的女性に向かって女の道を説きはじめるし、それをもてはやす女もいる(註10)。

 かくも完璧な女性性の横取りと押しつけが横行する中で、「女の側だって少しくらい好き勝手」とか、「溜飲を下げる」というのは、あまりリアリティのある言葉とは思えない。そんなことではどうにもならないほど男の側からの領有は凄まじいのだが。そして、ピーコがこれだけやっても何も言われないのは、言うまでもなく男だからだ。だから少しぐらい、と私は言いたいのではない。この非対称を前にして言葉を失うのではなく、次のように饒舌になることが信じられないと思うのだ。

 「いったん「他者」として切り分けた存在を、「私」との関係で非対称に配当し、お決まりのパタンでくり返しイメージした後に葬送する。この表象の横奪の問題は、現代(ポスト植民地時代)の諸研究で、すでに重要な論点として認識されている。たとえばハワイ、スペイン、沖縄が、経済的宗主国によってリゾート地として創出-消費(開発)」されてきた経緯があり、しかもこの「開発」は現地のイメージを一方的に創出-蕩尽する営みと密接不可分だった。とすれば、「女ではない他者」のイメージをパタン化し領有するやおい/BLも、微睡みの中にいることは許されない」(石田、前出)

 女にとって男は「他者」だろうか。とんでもない。男にとって「他者」とされてきた女は、それ以外に自らのイメージを持たず、そこから抜け出すときには「男」となるしかない。なぜなら、女ではないものこそ「男」とされてきた(それゆえ男はなんとしても自らが「女」の位置におとしめられることを拒む)からだ。「男」との関係で非対称に配当され、お決まりのパタンでくり返しイメージされた「女」とは空虚な存在であり、一方、「男」の側にはすべてがある(ように見える)。権利がないのに占有した他者の領域で、女がなりたいのは「女ではない他者」ではなく、「女ではない主体」だ。(エロティシズムの観点から言うなら、そうした主体こそが、主体が崩壊するときの、すなわち「受け」としての十全な享楽を持ちうるように思われる(幻想される)。男によって“パタン化”され領有されてきた女には、まず、この意味での主体がない。したがって彼女にとっての「他者」もありえない。

 上記の引用で、石田は、女が「他者」を植民地化しているありさまとしてやおい/BLを描いている。「リゾート地として」「現地のイメージを一方的に創出 -蕩尽する営み」であると。しかしこれは、あまりにも男女の権力関係を無視した、男→女を、単純に女→男へ反転させただけの安易なやり方ではないか。私は以前、ある発表(残念ながらやおいについてではなかった)で使うためにappropriationという概念(石田が表象の横奪と言うときの「横奪」)について、文化人類学が専門のMさんに教えを乞うたことがあるが、それによればappropriationとは、たとえば宗主国から《「押しつけられた文化イメージを現地で逆手にとって観光資本にするとか、「グロテスクな大文字の他者としての我々」イメージをとっかかりにした》文学作品を書くとかいう意味でも使われるということだった。すでにある資源を加工して、好きなナラティヴに再構成する——やおいもこの文脈で語れると思うという彼の言葉に力を得て、私はやおいに関して、好んで「流用」という訳語を使ってきた。

 文化資本を持たない女は、男の表象を流用して(それは男から見れば簒奪であり、権利のない占有/領有だ。“女の分際で”“身の程知らずに”そんなことをしているのだから)やおいを書く。だが、それは男を植民地化しているのではない(そんな力があるわけがない)。男についての表象資源はけっして当事者だけのものではなく、《あらゆる立場からのあらゆる目的での流用に「開かれている」》(Mさん)はずなのだ。それが具体的な場でどう働き、どのような意味を産み出すかは注意深く見ていかなくてはならないだろうが。

 ポストコロニアル的やおい理論(?)の見取図としてはこのようなものを勝手に考えていたので、正直、石田のような適用のしかたにはびっくりしてしまった。

 男女間の権力関係は厳然として存在する。少女マンガによる「西洋」の“横奪”が西洋の側からの異議申し立てを受けたためしがないように、「女」による男の表象もまた本気で受け取られはしない。後者は前者を歯牙にもかけないから……。やおいにおいて表現された(正しくない)同性愛者のイメージしか持ち合わせなかったので「青年の家」の宿泊を拒否しましたと証言した自治体があったろうか? 男には女が表現できる(女自身によるよりも巧みに)と信じられる一方、女には真の男が表現できないとされてきた(女形と宝塚の男役の非対称を見よ)。光源氏の遍歴は感情の放蕩だからあれは男ではないと中村真一郎は言っている。要するに、紫式部は女だから男が書けなかったというわけだ(男は性に関してもっと即物的だというのだが、この「即物的」という言葉、周知のとおり、男はロマンチストだが女は、といった文脈では女に帰せられる。要するに、男でないもの・男を補完するもの=女という形態に納まりさえすれば、男にとって論理的一貫性などどうでもいいのだ)。

 やおい/BLに対する批判も、この、「女の描く男は男ではない」というなじみ深い主張の一ヴァージョンに過ぎないというところが確かにある。そうなるとこれはゲイ表象というより、むしろ女性による男性の表象一般にかかわってくる。それがゲイ表象に特化されたことは偶然とは言えまいが。
 それにしてもやおい/BLは本当にゲイの「具体的」差別につながるのだろうか?

 男の表象は誰のものか?
 やおいが男の表象を使って男同士の関係性を描くとき、それは「男」の表象であるという一点で、ストレートの男をも脅かす(それが「ゲイの表象」ではなく「男の表象」であるために)。ゲイでない男がそうした表象によって、わが身に男のエロティックな視線が向けられる可能性を知れば不安も覚える。

 だが、それが女の手になるものであれば、すなわちその表現が贋物と認定されれば、「男の友情」であるものにそれが理解できない「女」が、勝手にエロティックなものを「仮託」して誤読したと決めつけてしまえば、そして、世界の中で男にとっての「他者」、男に対する「女」というポジションしか取りえない女が、分をわきまえずに妄想した、彼女の本性に反する「間違った」セクシュアリティであるとされれば、ストレートの男は安心していられる。

 そもそもappropriationという言葉を私が知ったのは、デイヴィッド・ハルプリンの『同性愛の百年間』で「専有」などと訳されていた語(の原語)としてだった。Mさんからは、抵抗的なappropriation(カルチュラル・スタディーズや文化人類学)と収奪的な appropriation(フェミニズムやセクシュアリティ研究)はそれぞれ独自の理論から出てきた批評概念だと教わったが、これをあてはめるなら、『同性愛の百年間』に収められた「ディオティマはなぜ女性なのか」という、プラトンにおける女性性の「横奪」を語って間然するところのない論文の場合は後者、オリエンタリズム的イメージの押しつけを逆手に取って観光資源にしてしまうのは前者になる。やおいも、劣位に置かれた女性がすでにある表象を使って自分たちのためにエロティックな表現をしているのだから前者と言えよう。

 そうなると、石田のようにゲイ表象の女性による「横奪」(これはむろん収奪的)を言うのは、女性とゲイによる、表象資源の奪い合いということになるが、しかし、女性表象を「横奪」する男は、すでに述べたように女を女自身よりもよく知っていると称しうるのに、腐女子は(“良い”腐女子は)、石田が表象の横奪だと言えば即座に謝ったり自己点検につとめたりするのでこれは非対称だ。同じことでも、女がする場合と男がする場合では効果が違う。男による女の表象を女は内面化して自らをまなざすが、やおいの場合その逆がありえないのはゲイ男性が一番よく知っていよう(註11)。

 “身分制度”が強固であり、“御主人様”と“婢”の距離が無限大である社会では「やおい」は成立しなかったろう。それより前に、ジェンダーを横断した同一化がありえなかったろう。しかし、“御主人様”の方は男の特権でそれができた。御主人が婢にかりそめに身を落し、女性性をも体現できることは、男が優れていることのあかしだった。だからこそソクラテスは巫女ディオティマに教えを乞うという形で、男の優越性をそこなうことなく愛についての知識を完全なものにしえたし(しかもその愛とは、最初から最後まで——妊娠や出産の譬喩を頻出させながら!——男同士の愛である)、時代は下ってフローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」と言いえたのだ。稀代のミソジ二スト、ボードレールが、「ボヴァリー夫人は男だ」(女にはボヴァリー夫人のような想像力はありえないから、と女を蔑みつつ)と応じて彼の仕事が「横奪」であることを明らかにするとき、かえってそれはフローベールの栄光となりえたのだった(註12)。

註10 最近の例を一つ(【独女通信】おネエに学ぶ、たくましくも麗しき女道)。そこでは女の書き手が(「おネエ」にならって)「女という性に甘んじず、努力したい」と語る)。
註11 とはいえ、やおいに限って言えばこれは畢竟「よく書けている」かどうかの問題(オスカー・ワイルド的問題[『ドリアン・グレイの肖像』序文参照])で、ジャンルBLの多くはまだそこまで達していないとも言える。
註12 もしも女が「あの受けは私だ」なんて言おうものなら……どんな解釈をされることか。

6 “男はゲイ小説書きませんものね”

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男にとっての「妻」でも「妾」でも「婢」でもない女、「女制」の外部の女というのは、
歴史の中にいなかった。
だからこそ、近代──人が「身分」から解放されうる時代、
女にも教育が与えられる時代──に、
それも“近代的良妻賢母”以外の選択肢が、
それ以前より遥かに多くの女性にとって現実的なものになった、
日本においては戦後、やおい的なものが女性にとっての
Alternativeな性愛のファンタジーとして一般化しえたのでしょう。(Aさんのメールより)
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 『赤壁の宴』は、三国志の登場人物である呉の孫策と周瑜の関係を濃密に描いた女の作家の小説である。著者自身は男の友情を書こうとしたらこうなったと述べており、私の趣味から言えば文章が通俗に流れるところが残念だが、しかし、二人の関係は非常によく描かれている。この小説の二人は親友(実際、その交わりは「断金の契」という言葉を歴史に残す)というより主従の方にウェイトがかかっていて、周瑜は孫策を気軽に伯符と字で呼んだりはしないが(って、そういう“策瑜”のイメージどこから来たんだw)、非常な美男子であることは(これも史実である)変わらず、孫策はお前が女なら抱いてやったのに、てなことを言いもする。だが、周瑜の抑圧が非常に強く、孫策は周瑜さえオーケーならと実は思っているふぜいだが彼がついに本心を見せないのでついに結ばれぬまま……と言うだけですでに読みたいとお思いになった方もいようが、こういうのが我慢ならない人もいるのだとAmazonのレヴューを覗いて知った。

 確かに、こんなうじうじした周瑜なんてイヤ(これは周瑜じゃない!)、という向きもあろうし、それはわかる気がするが(私はこれはこれでスキ v)、やや変わった理由からこの本を激しく非難している女性がいて、それが傑作だったので紹介しておこう。帯には「女性でなければ書けなかった」とあるのだが、件のレヴューアーいわく、

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 女性でなければ書けなかったなんて、同性として恥ずかしい、
 そりゃ、男はゲイ小説書きませんものね!
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 なるほど、これがゲイ・イメージの横奪というものか!
 小説がではない。このレヴューがである。
 彼女は小説に横溢するホモエロティックなものが、男同士の友情と男同士の性愛の境をかき乱していることを知っている。内容的にもそれを越えるか越えないかが問題にされているわけだが、周瑜は越えられなかった(しかし、孫策の死後、抱かれてしまえばよかった、それなら今頃こんなに思い出さずにすんだろうと悶々とするのだ。いいでしょう?)。しかし、そこまで行けば越えたって越えなくたって同じである!

 そのとき、この一種のホモセクシュアル・パニックに襲われた女性は何をしたか。この小説を「やおい」に分類したのだ。私個人としては全然オーケーだけど、彼女の文脈では、それは作品の信用を落す行為である(その意味で「やおい」とは差別語だと言える)。著者が男性であれば、彼女とてそういうことはできなかったろう。いや、そもそも彼女の信ずるところでは、男性であればそんなものは書けなかったはずなのだ(「女性でなければ書けなかった」という帯の文句がそれを保証すると同時に彼女を憤慨させる)。彼女によれば男は「ゲイ小説」(同じものを女が書けば「やおい」である)を書かない——とは、つまり、ゲイ男性は存在しないということだ。

 彼女は何を言っているのか。彼女にとって、〈女〉が(彼女が、そして彼女と“同性”の者たちが)第一に配慮すべき相手は(ヘテロセクシュアルの)男性なのだ。自らの性的ファンタジーを男もいる前で披瀝した“同性”のはしたなさに赤面し、そんな女ばかりじゃない、どうかあの女と同じだなんて思わないでくれと、「男の人」に懸命にアピールしているのだ。そういうのはゾーニングしてほしい、「女性向け」とラベルを貼ってほしい、歴史小説と銘打って表舞台に出てこないでほしい。(それにしても「同性として恥ずかしい」という言葉、本当はそれ自体「異性」にしか顔を向けていないのがまるわかりの、かなり恥しいものだと思うぞ。)

 「表象の横奪」——“男はゲイ小説なんて書かない、書くのは腐女子だ”——の核心は、やおい/BLにおける「同性愛者」の表象が「正しい」か否かよりも(それは個々の作品の水準に帰せられよう)、むしろこの、ゲイ男性の存在の否定を水も洩らさぬものにする構造的な問題にあるのではないか。

 「男の世界」(ホモソーシャル/ホモセクシュアルなものを含む)であるものに女が(“身の程知らず”に)アクセスすること自体が、本来、禁じられた/不適切な行為なのだった。それが「禁断の世界」であるのは、男性同性愛が禁じられているからでも、また、女が性的な表現にアクセスするのが禁忌だからでもなく(それとも関連はするが)、ジェンダー秩序にゆさぶりをかけるものでありうるからだ。それは男の領域を女が不法に占有(aprropriate)することだ。(“男性”同性愛も男の領域である。ミソジニスト/セクシスト/ホモフォウブだった吉行淳之介は、女に絶対なれないものが一つだけある、ホモだよとウーマン・リブを揶揄した。)その意味で、やおい的なものを論じながら、女性読者を制度的に想定したジャンルBLに事実上、話を限ることは、そうした表象に「女性向け」(“男はゲイ小説読みませんものね!”)とラベリングすること同様、その侵犯性を少しでもやわらげようとするしわざであろう。

7 ファンタジー、真理、フィクション——やおい化する欲望

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「リアルなファンタジー」として感受されるものこそが、
固定され自明のことのようにされた人の主体を動揺させ、脅かし、
そして解放するものなのでしょうね。(まさに、ヴァンパイアのように)
それが怖いから、「正しさ」で蓋をしようとする者もいるのでしょう。(Aさんのメールより)
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 切断しよう、「自律」しよう、「占有」ではないものとして肯定しようとする動きは(むろん幾分かは「ゲイにファンタジーを押しつける」と言われることへの反作用であろうが)、すでに挙げた、「女性の美少年嗜好」は現実の同性愛者と関係がないと言いつのる谷川たまゑ=水間碧だけでなく、「ユリイカ」の前回の特集での上野千鶴子にも(これは今回の特集で石田が指摘している)、今回の小谷真理の「C文学」をめぐるおしゃべりにも見られる特徴だ。

 これに対して、それはもともと「男の」ファンタジーだったものを抵抗的に「流用」していると〈私たち〉は主張するものだ。

 最後に、恐らくは「やおいネイティヴ」ではない主体による、制度的にジャンルBLが存在するわけでもない状況下での、「やおい的なもの」との出会いを語るエピソードに触れておきたい。

 と大きく出たが……ほとんど実質はないに等しく、その文章が載っていた本自体見つからず(家のどこかにあることは確か)、本文は読んでいなくて、あとがきの一部に過ぎないのだが。要するにこういうことだ。ポルノ映画の歴史を研究した“Hard Core”というずいぶん前に買ったままの本があって、そういう本を持っていることすら忘れていたのだが、先日、appropriationという語についてのMさんとの交信記録をたどるうち、彼へのメールでこの本に言及しているのを見つけた。この本のあとがき(それだけ先に目を通したらしい)で著者は次のように書いている——私はこの本を書くために(当然ながら)多くのフィルムを見たが、その中で一番萌えた[意訳]ものは何であったか? それはmarried womanである私に向けたものでは全くなかろうと思われる男同士のイメージであった。

 そのことの意味について彼女がそれ以上書いていたわけではなさそうだ(そうであればメールでさらに触れたろう)。これはぜひ本を探し出して彼女の研究を読まなければ。今はただ、この「誤配」をめぐって、少しばかり覚え書きを記すにとどめたい。

 既婚の女のためのポルノグラフィが考えにくいのは、彼女の性的欲望が家庭内に封じ込まれ、もっぱら夫との関係のうちにあると考えられるからだろう。それは生殖という目的に添って組織されたセクシュアリティを持ち、思春期に月経がはじまって自分が女であることを自覚し、異性間性交し、妊娠し、出産し、子育てをして、更年期を迎える女だ。

 だが、むろん、そんな女などどこにもいない。

 彼女は現実の異性愛に飽きたらず、ゲイのイメージを利用したのだろうか? これは必要悪であり、いつの日か「[異性]愛の再発明」(ランボー)が実現した暁には、男との性愛における彼女のみじめさは取り除かれ、彼女はもはやゲイポルノに性的昂奮を覚えなくてすむようになるのだろうか? いや、異性愛が再発明されることがあるとすれば、それは異性愛が唯一の「正しい欲望」ではないと認められる時だろう(それに、再発明される日まで異性愛のすべてが〈悪〉というわけでもあるまい——そこまで異性愛を「ガチ」と思い込まずともいい)。

 ゲイポルノで「萌え」られる彼女は、幸いなことに真理に——彼女の「正しい欲望」に——至りつくことがない。

 彼女は女であることのみじめさから救われるためにゲイのイメージを利用したのだろうか? いや、むしろ、彼女はやおい化することによって、男のファンタジーを救うのだ。彼女の欲望はゲイのファンタジーを「やおい的なもの」にする。同じものに性的昂奮を覚えても、その主体が女であれば「やおい」である——だから、(やおいが差別するのではなく)「やおい」は差別語なのだ。だが、そのとき、ゲイのファンタジーもまた(ひいてはゲイ・アイデンティティそのものも)、それが仮の命名に過ぎず、自分が単一の実体ではなく複合的に構成されたフィクションであることを、「自律」したものではありえぬことを明かすだろう。享楽する者の身元をそのとき誰が尋ねようとするだろう?

★プロフィール★
鈴木薫(すずき・かおる)突然インターネットの接続が切れました。ひかり電話もダウンしました。自サイトも過去のメールもなしに今回の原稿は書けないのでネカフェで書き上げました。実家からBフレッツの故障専門の番号にかけたら、1のボタンを押して下さいと録音の声に言われました。ダイヤル式なんですけど。ひかりにした方もダイヤル式。親の遺産の黒電話二台持って携帯持たない人です。/「今回のテーマについては最近のブログでも書いています(というか、やおい論専門ブログになりつつあるような)。併せてお読みいただくと面白いかもしれません。/なお、〈私たちは二人だった〉とはいえ、〈私たち〉とは〈私〉の複数形ではなく、あくまで〈私たち〉と名乗る者が他をも代表して語る非対称な形式です。私の文章が(当然ながら)Aさんの意見を完全に代弁しおおせているわけではないことを念のため付け加えます。
ブログ「ロワジール館別館」
Web評論誌「コーラ」04号(2008.04.15)
「新・映画館の日々」第4回:私たちは「表象の横奪」論をほってはおかない(鈴木薫)
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Web評論誌「コーラ」04号(2008.04.15)
「新・映画館の日々」第4回:私たちは「表象の横奪」論をほってはおかない(鈴木薫)後半

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やおい/BLは、主にレズビアン/ゲイ・スタディーズの分野から批判的に評価されてきた。ゲイにファンタジーを押しつける、ゲイを「一角獣のような幻の存在」として描いており「不愉快」である、男性同性愛者の性を商品化した差別表現であるなどと批判されてきた。これらをまとめて表象の横奪(the appropriation of representation)の問題と呼んでおく。
(石田仁「ほっといてくださいという表明」 『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ)>
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1 それは〈私たち〉にとって何であるか

 本稿の表題はエピグラフとして引いた石田論文への応答というよりは軽くガンつける挨拶するくらいのつもりでテキトーにでっち上げられたものだが、ここでいう〈私たち〉とは、論文に慣用的に使われて嫌う人もいる(私はけっこう好き)一人称複数ではなく、具体的な二者を指している。むろん、読む人は誰でも自由にそこに加わり、〈私たち〉と称してもらえばいい(そんなことは、サイトにリンクを勝手に張ってもらってかまわないのと同様、書き手が指示するようなことではないし、どうこうできることですらない)のだが、ともあれ、とりあえずのはじまりには〈私たちは二人だった〉こと、そしてそれは私の読者のAさんと私であることを〈はっきり〉言っておこう。

 Aさんからは、今年の一月にはじめてメールをもらった。TVアニメ『鋼鉄三国志』の設定を流用(appropriate)した私の小説『裏説[りせつ]鋼鉄三国志』を通信販売で購入したいという内容だったが、鈴木の評論を楽しみに読んでいるという一行があったので返信で確認すると、最初に見つけたのが「アンジェンダレス・ワールドの愛の実験」(「カルチャー・レヴュー」31号掲載)で、その後、私のブログを知り、「カルチャー・レヴュー」や本誌「コーラ」での連載を欠かさず読んでくれているという。また、子供の頃出会った「三国志」の思い出について語り、私の評を読んで「久し振りに自分にとってのそうした感受性の原点を思い出した気がします」とあった。続くメールで、Aさんは、三国志との出会いについてもっと詳しく説明してくれた。評論を読んで関心を持った書き手(私)がたまたま三国志ものを書いていたというにとどまらず、彼女にとって三国志とは格別に思い入れのある対象なのだった。

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《私が初めて読んだ「三国志」は演義のあらすじを子供向けに簡単な文章で再構成したダイジェスト版で、別に女性向けの脚色があった訳でもないのですが、
主人公がそれまでの仲間と不和を起こすほどに「背の高い、鶴の羽根で織った着物を着た若い男に夢中になり」「ついには水魚の交わりと譬えるほど深く結ばれた」という描写には、ただならぬものを感じずにはいられず、同時に強く惹きつけられました。
女にも似た何かを持った登場人物が、同時に男であり、男と結ばれる物語がありうるのだと知ったことは、世界を見る目を遥かに豊かにしてくれたし、それが女であることへの嫌悪だとは、自身に関する限り、まるで当てはまるとは思わないのです。》
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 「『何かを好きなこと』を自分で肯定するときに一番力になってくれるのは、ただそれが好きなことで幸福だったという、自分自身の記憶そのもの」だと思えるようになったのには鈴木の文章の影響が大きいとも書いてきていたAさんの言葉には、だから私の想像以上に深い意味がこめられていたのだった。メールのやりとりをしながら、知識量と文章から最初私は漠然とAさんを三十代くらいかと思っていた。それからもっと若いことに不意に気がつき、そうなると文面がまた別様に見えてきたが、それ以上勝手に想像することはやめて会ってみると、まだあどけなさの残るほどの若い人だった。

 私の場合、批評的な文章は多かれ少なかれ〈怒り〉をきっかけにして書かれることが多い。「詩は怒りだ」という入澤康夫の断言を最初に見たときは当惑したものだ。入澤の詩と詩論をはじめて知った高校生の昔でさえ、すでに、書くとは、何を書くかを明確に意識した主体が、それをできるだけ巧みに「言葉によって表現」する、つまり内部にあるものと表現されたものとの距離をゼロに近づけるのではなく、《語に主導権を渡す》ことであるのだと私は経験的に知っていた。はじまりにおいて内部にあったものは何ものでもなく、ただ言葉の効果がすべてなのだ。だから、「詩は表現ではない」、つまり、先に作者の内面があってレモンを絞る(express)ようにそれを外へ押し出す “expression”ではないという入澤の教えは抵抗もなく入ってきてそこにとどまった(内面を伝えたいという当時の私の思いがいかに切実なものであったとしても)。しかし、感動が、琴線に触れたものが、「幸福の記憶」が書くことには先立つと、そしてそれは端的に「良いもの」だとはなおも信じていたようだ。

 しかし、詩は〈怒り〉なのだった。不愉快で、良し悪しでいえば間違いなく悪に属する、どす黒い負のしるし。それが最初腑に落ちなかったのは、まだ、世界との軋轢にそこまで直接さらされなくてすむほどには私が保護されていたということなのだろうが、ひとたびそれが実感できたときから、ものを書くにあたってその認識はもはや私を去らなかったように思う。しかし、Aさんの手紙は、私の心なしの言葉を自分の思いで充填してくれる読者が実在することを、「己を知る」者のためにこそ最初は書いたし、実は今もそうであることを、自分が他者の共感を必要とする“死んでいない” 作者であることをあらためて思い出させてくれた。私の読者などさして無いにしても、そういうことは現実に起こっているのだし、起こりうるあかしとして顔のある読者がある日私の前にあらわれた。三島由紀夫は自宅の敷地内に入り込んできた男、本当のことを言ってくれと彼に迫って警察に引き渡された若い男を、(いつか自分もそこへ帰って行くべき)「荒野から来た」と表現したが、私の読者は私の過去の柔らかい部分から来たようだった。その日私たちは九時間話した。

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《やおい的なものを愛好することを「ミソジニー」の一言で片付けてしまう解説(フェミニズム的な基準で劣った、あるいは望ましくない感性であるとされてしまう)でもってある種のフェミニストとゲイ男性が呉越同舟しているのを目撃して、とても傷ついたことがありました。
まるで、高みから「身の程をわきまえろ!」と怒鳴りつけられたようで、とても怖かったです。
本当のところは、女性の性的なファンタジーを抑圧するコードが昔風の貞操観念から「政治的な正しさ」にすり替えられただけなのでしょうね。》
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 インターネットのへヴィ・ユーザーであるらしいAさんは、そこでのやおいをめぐる言説の中で、「腐女子」がどのように表象され、どのように非難されているかに通じており、それに危惧を抱いていた。「腐女子」というカテゴリーを作った結果(作ったのは当事者でも、それが「横奪」(!)された結果)、いかなる権力作用がそれをめぐって働いているか。

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《「ユリイカ」の例のBL研究本系列の議論、というかネット上でのやおい関係のおしゃべりは、読んでいて不愉快になるのが九割方なので、なるべく近寄らないようにしていますが、どうも「腐女子」という単語が一人歩きして属人的なレッテルになるにつれて、この人にはまったく関係無いだろうと思っていたような、いわゆるリベラル系の男性ブロガーまで
「腐女子といわれるような連中が、ゲイ男性の人権を省みずに表象暴力を云々」
という様な発言をするようになっているのを見た時には、言うに言われぬ恐怖感を抱かずにはおれませんでした。》
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 私と直接やりとりをするようになる以前にも、反動的な言説に対抗するのにAさんは私の書いているものを参照したという(そのように役立ててもらえれば書き手としてこれにまさる喜びはない)。私もAさんの言葉をずっと参照しつづけた結果、本稿には、Aさんとの会話で得たことや、さらには彼女のメールからの具体的な引用を、本人の了解の上で入れさせてもらうことにした。

2 「やおい的感受性」

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 考えてみれば、三国志演義を書いたのが「腐女子」な訳が無いんですよね。
それこそホモフォビックな先入観の優先無しに、人並みの読解力があれば、子供だって気づくことでしかないはずで、
 その感受性に「腐女子」という属人的なレッテルを貼って他者化(排除)する方が本当はおかしいのでしょう。(Aさんのメールより)
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 やおいは自分の母語であり、自分はやおいのネイティヴなのだとAさんは私に語った。これは個人的に非常によくわかる話だ。私の場合で言えば、男女の恋愛やセックスについて知識を得るよりはるかに早く、それははじまった(註1)。むろん、男女に対応する男男の関係についての知識ともそれは関係なかったし、男同士の関係性が根本にあるというものでも必ずしもない。男同士の表象とは、むしろ、それをより効果的に体現するものとして遅れてやってきた。唯一はずせないのは、それがエロティックであり、快をもたらすものであることだ。(だから、やおいを語りながら、「女性の性は怖れからはじまる」と繰り返す藤本由香里のような人には、少なくともこの部分には私はシンパシーを抱けない。)やおいというジャンルはまだなかったから、私自身はまさしく母語を覚えるように手持ちの断片でブリコラージュすることからはじめて、JUNEより先に Genetを読み(だから攻め/受けがやおいの発明品でないことを知っている)、英語の「ゲイ・エロティック・ライティング」(註2)まで(むろんこれは後年の話)行った。BLが本屋の棚にあふれていてそれを思春期以降に手に取った世代とは違うのだ。いや、Aさんを得たので、私は世代という言葉を使う必要がなくなったと感じている。

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《私個人の話をするなら、いわゆる商業系BLはほとんど興味がありませんし、
もっと言えば、ゲイという自意識や概念が登場しない物語でないと入り込めないタチでもあるので、
(だから結果的に歴史物ばかりとSFが少しになってしまうようで)
あの手の場所で叩かれている理由のほとんどは当てはまらない。
それでも「腐女子」を自称し他称される人達と同質の感受性を共有していると思うし、それ自体を罪悪として詫びたり禁制を布かれるべきものだとは思えません。》
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 「歴史物」のもともとの作者はむろん男である。「やおい的感受性」(とAさんは呼ぶ)は、「感受性」であるのだから本来性別にかかわらず持ちうるものであるはずなのに、それが「腐女子」というカテゴリーに囲い込まれた結果、限定された特殊な人間にのみ属するものとされ、しかもそのこと自体女として「正しくない」と決めつけられる、そのような人間としてレッテル貼りがなされる恐しさをAさんは語った。

 すでにお気づきであろうが、Aさんのこのロジックには、同性愛者というカテゴリーの成立についてのフーコーの考察に似たところがある。誰にでも(というときそれは当然のことのように男なのだが)潜在的に開かれていたものが、「種族」の属性とされることで、「異性愛者」と明確に区別される「同性愛者」が誕生した(いや、フーコーによれば、「同性愛者」というカテゴリーが作られたために「異性愛者」もできたのだが)。三国志の英雄は仮に男色を行なったとしても「同性愛者」や「ゲイ」ではありえないが、「やおい的感受性」もそのようにアイデンティティとしてではなくゆるやかに人に属する。それはセクシュアリティの一部、性的指向とはまた別の、しかし当事者にとっては重要な一部なのだ。むろん、空想のシナリオに登場するのが男であること自体、この世界にあって人が性別をどう感じ取るか、男がどのように表象されているかということにかかわるものだ。Aさんから教わった本であるが、『貝と羊の中国人』(加藤徹)には次のような記述がある。

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「男、漢、士、侠という漢字がある。いずれも「おとこ」という意味だが、それぞれニュアンスは違う。/「男」は「女」に対するオトコ。「漢」は、汗と血を流す熱いオトコ。「士」は、高い志をもつ士大夫のオトコ。「侠」は、信義のために命をも平然と捨てるオトコ。(…)『三国志』の登場人物の中で、究極の「侠」は劉備であり、理想的な「士」は諸葛孔明である。」
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 オトコにはいろいろあるが、女には、「男」に対する「女」の一種類しかいない(紅一点論!)。というより、最初から表舞台には登場しない。出るときは“彩り”(男たちがホモセクシュアルでなくホモソーシャルに見えるように?!)だ。けれども、〈私〉たちはそうした女であることを忌避してやおい的なものに逃げ込んだわけではない。Aさんは自らのやおい的感受性を(で)発見するのに女を嫌う必要などなかった。とはいえ、成長してみれば、このヘテロセクシストな社会では、確かに〈私たち〉は、男との関係によってしか存在を許されない〈女〉に分類されているのだった。

 だから問題は(ゲイの表象に特化しない)「オトコ」の表象と、その仲間に入れない(劣位の)〈私〉との関係だと〈私たち〉は考える。ところが、驚いたことには、〈女〉であることのみじめさに苦しむ哀れな女(註3)が、さらに劣位にあるゲイ(註4)のイメージを消費している、男が自分より劣るとされる女の表象を消費するように、女は下位にいるゲイの男を……などと、どうしたらそんなことが思いつけるのかわからない説明をする人がいるのだった。百姓がエタ非人を蔑むみたいなこの言い方は、これもAさん経由で知ったのだが、やおいにパラノイア的憎悪を抱いているらしいゲイ男性のコメントに対し、ある男性ブロガーがしていたものだ。私もこのブログは知っており、むしろ好感を持っていたので、Aさんの言う“リベラル系の男性ブロガー”が彼であると知ったときは信じられない思いだったし、過去のコメント欄にそういうやりとりを見つけたときは(Aさんは二度と見たくないと言っていたので、私は自分で探し出した)それ以上にショックだった。同性愛は生まれつきだから許してほしいとマジョリティのお情けにすがるに等しい論理で承認を求めるゲイ(男性)がいるように、彼は女の代弁をして、女はそうせざるを得ない状況に置かれているのだから許してほしいと言わんばかりに、そのゲイ男性と「腐女子」の間を取り持っていた……。

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《女性にはセクシュアリティに関しても、教育的に(“フェミ”的に、も含む!)望ましいセクシュアリティを持つよう善導できるし、するべきである。(ただし、「レズビアン」であれば、免責事項の適用を許可する!)というような、無自覚な善意のダブルスタンダード(権力)の発動を感じてしまいます。
リベラルであるという自意識とは裏腹に、「“女”のくせに、身の程を知れ!」という保守的な感性が、根底にあるのだと思います。
「マイノリティ」として認定されたものにではなく、“マジョリティの出来損ない(≒“批判者”の出来損ない)”に対してこそ、無自覚なままに最も暴力的に振舞いうる感性の恐ろしさ、でしょうか。
(「ミソジニーを“治療”すれば、やおい嗜好は“矯正”できる」みたいな…)》
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 「ほっといてくださいという表明」(「ユリイカ」2008年12月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ)で、「腐女子の「ホモ」は「[リアル]ホモ(ゲイ)」をつねに・すでに参照している」と石田仁は言うのだが、ジャンルBLの、少なくとも現代の日本を舞台にした作品に限定すればそう言えようし、その限りで石田の異議申し立てが有効であるのも、「腐女子」当事者を自認する女性研究者の言説に対して、彼が最近の「ユリイカ」の二度の増刊号(一度目は「総特集腐女子マンガ大全」)にあれらの論考を書かねばならなかった理由も意義もわかるつもりだが、いかんせん、過去を振り返るのに「ゲイブーム」と言われた時代程度ではどうにもスパンが短過ぎる(註5)。

 Aさんと会ったとき、私は買って間のない「ユリイカ」のBL特集を持っていたが、すでに引用したとおり、そういうものにはなるべく近づかないようにしているというAさんに「つねに・すでに」のくだりを紹介すると、彼女は一言、「身の程知らず」と呟いた。

 石田の論考が対象にしたり、向けられたりしている相手では、だから本当は〈私たち〉はないのだろう。〈私たち〉は、改悛言説を吐き、ゲイ男性に申し訳ないと感じる、政治的に正しくあろうとしているような女たちではない。また、そうした人々も含む、彼女たちに介入しようとしつつそれについてのアンビヴァレントな認識が石田によって語られているような、BLの読者/評者/作者でもない。だからと言って、Aさんも言うとおり、「腐女子」と呼ばれることから〈私たち〉が逃れられるわけではない——〈私たち〉は、つねに、すでに、参照されている——のだから、これは端的にフェアでない。

 ハンパに啓蒙され、表象すること自体が暴力だとか言い出す連中はとりあえず「ほうって」おこう。ここではただ、好きなものにあくまで執しつつ、一方で湧き上がる怒りを鎮めるために、少しばかり問題を整理して見通しをよくすべくつとめることにしたい。

註1 これが非常に奇妙な言い方であるのは——まるで、男女の恋愛やセックスについて知る前に言葉を覚えたとか、マスターベーションを覚えたとか言っているようではないか——承知している。あえてそうするのは、理想の男女関係のあり方が先行するイメージとしてあり、それが男同士のかたちを取ってやおいに表現されているというありがちな説明は顛倒していると考えるからだ。それは要するに思春期以降しか視野に入れていない。
註2 ゲイ・ポルノと言ってもいいのだが(「ゲイ・メイル・エロチカ」という名もあったっけ)、私がはじめて読んだアンソロジー(それまで主としてアンダーグラウンドで流通していた小説を編集したもの)ではそう呼ばれていたのでここではそうしておく。ちなみに、それらの本には男名前で passingしていた女性の作家も入っており、彼女たちの話(それから、女の想像力から生まれたとは知らずそれで抜いていたゲイ編集者の話)も収録されていた。なぜ男同士で書くかという理由については、その方がエロいからとか、ゲイ男性の方が自由に性を楽しんでいるように見えるからとか答えていたと記憶するが(今、本を参照できないので不確かな言い方になる)、読者の性別のことは言わないまでも、少なくとも彼女たち自身のエロティック・ファンタジー抜きでああいう小説は書けるものではない。(私の定義ではこれも「やおい」に入る。)なお、こうした作家たちの本の一部は、その後、一時、白夜書房から邦訳が出て書店の「耽美コーナー」に並んだ。
註3 このような女の自己憐憫をミソジニーと呼ぶという了解が広まりかねないのを懸念してあえて言うが、ミソジニーもまた本来は男のものであり、それを女が内面化するのだ。ミソジニー=女嫌いと異性愛は矛盾しない。女とセックスはするけれど一番大切なのは親友の男、男同士の関係こそが本物で、女は本当は汚い、と思っていられるからだ。
註4 誰がよりマイノリティかを論じるのは不毛なことだと思うが、少なくとも、男が劣位の女を利用し、女がさらに劣位のゲイ男性を利用というこの並行関係はありえない(カムアウトしたゲイ男性をストレートの男性が劣位と見なすことはありうる)。性的指向が同性に向くことだけが厄介事で、それ以外には自分にも社会にも不満を覚えず、社会的にはむろん男性であるので一般に女性より高収入を得られ、できれば偽装結婚したいくらいに考え、女の状況など全く思い及ばず、おまけに女と関わらなくてもすむので一生そのままであろうゲイ男性は大勢いる。
註5 前回の「ユリイカ」の特集での石田論文「ゲイに共感する女性たち」は、女とゲイ男性が下手に関わり合いを持たせられるとどんな醜悪なことになるかという、ある時代の記録として貴重なものだと(皮肉でなく)思うし、これからも参照させてもらうだろう(と言いつつ、今、本が出てこないもので参照させてもらっていません orz)。

3 Who’s afraid of the big bad male nude?

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この手の物の元々の担い手が(おそらくある意味では今も)男性だったことの意味を全く押さえていないのでは、
お話にもならないですね…。(Aさんのメールより)
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 宮城県・黒石寺の“裸祭”蘇民祭のポスターがJR東日本に掲載拒否された一件はまだ記憶に新しいが、その理由は、JRの男性課長の言葉として最初に報じられたものによれば、胸毛などは「女性のお客様」が不快に感じるのでセクハラにあたるというものだった。事態を紛糾させた一因はこのセクハラという言葉にあったろうが——ポスターの写真を見、その記事を読んで最初に思ったのは、逞しい裸男が上を向いて口をO字形に開けたこの写真が、担当課長のホモフォビアを刺戟したのではないかということだった。これを見て女性が不快に感じるだろうか? もちろん、不快と思う人もいようが、「女性」なら不快に感じると決めつけられ、それを公然たる理由にされたことが私には不快と言えば不快だった。

 このポスターを女に対する「セクハラ」だというのが腑に落ちないとして、では、どういうポスターだったら「セクハラ」と言いうるだろう? レイプを連想させるとして問題になった三楽のCM、と言ってももう知らない人も多かろうが、私はリアルタイムであれを見ている。しかも、TVにCMが流れるのを前夜自宅で見て、あくる日その続きを公共の場に貼られたポスターで見るという、なんとも“理想的”な受け手であった(本来男性主体が占めるべき場所として、CM制作者にも想定されていたかもしれないポジションであろう)。だから、抗議した女たちが過剰に反応したとか考え過ぎだとかいう話では全くなかったということの証人としても書いておく……男まさりの西部の女が荒くれ男たちに囲まれるCMを夜のTVで見た翌日、同僚と歩いていた地下鉄の通路で、前夜の女が泥まみれになりながら仰向いてこちらを見ている姿がアップになったポスターが目に入ってきたのだ。あっと思った。これがTVでは放送されなかったフィルムの続き……。そのとき同僚が、「何、これ、嫌な感じ」と呟いた。「どうしてこんなの貼るの?」ポスターだけでも、彼女にもわかっのだ。嫌な感じ……「女性のお客様」が明らかに“不快”に思ったそれに、営団地下鉄の担当者は何も感じなかったとみえる(ついでに言えば、当時女性の職員は皆無だったはず)。「セクハラ」という言葉はまだなかったから、同僚も私もそう名づけることはできなかったが。

 三楽のポスター(たとえば)がなぜ女にとって「不快」で「セクハラ」かといえば、自分もまた同じように男たちの性的なまなざしの対象にされる——被害者の西部の女(乗りこなされたじゃじゃ馬)に注がれたのと同じ目が、今度は自分に注がれる——公共空間が、それに対してはポスターの女の無力なまなざしで対抗するしかすべのない、ヘテロ男の性的ファンタジーで充満した出口のない空間に変わる——いや、私たちが生きる空間がもともとそのような逃げ場のない、地の果てまで(男の)へテロセクシュアリティで舗装された世界であることを見せつけられる経験であるからだ。

 黒石寺の女性住職は、都会の娘に何がわかる、てなことを言ったらしいが、都会の娘は何も言っていない。JRの男課長が言ったのだ(註6)。マスメディアの報道のみを根拠にした臆測をあえてするが、男が性的なまなざし、しかも男のそれの対象になる可能性を、彼はあのポスターに見て不快になったのではあるまいか(それがもし快であったとすればますます不快に)。そう感じたのは自分なのに、「女のお客さま」が不快なことにした(あるいは、「女」にされて彼が感じた不快感か)。裸男が現実に迫ってくるならともかく、男の表象を女は(男のようには)恐れたりしない。恥しそうなふりはしてみせるかもしれないが、それよりも面白がるだろう、あのポスターなら。

 ニュースへの反響(もっぱらウェブ上の)で注目したことの一つは、JR東日本の決定を「差別」と呼ぶ者の多さだった。いわく、胸毛のある人への差別だ、いわく、女が好むきれいな男なら何も言われなかったろう。「差別」という言葉は今日ではいくらか護符のようなものになっているのかもしれない。やおいはゲイ差別というのも言う方は切札のつもりだろうし、それだけで反応してしまうリベラルな(と自らを思う)男性ブロガーもいるくらいだから。あるいは、美人コンテスト反対の論理を無意識になぞったのかもしれない。女の好みばかりが優先されると文句を言う男もいたが、これは、女は差別されていない、今やむしろ優遇されているじゃないかといったうわ言をいう層と重なっていよう。JRは女に媚びてる、女の裸ならよくて男の裸はだめだというのは差別だなんで奴まで出てきて(これはゲイ男性のサイト)、ゲイでもストレートでも男のバカさ加減は同じと思わずにはいられなかった。

 私がこの事件に注目したのは、ホモセクシュアル/ホモエロティック(あのポスターの絵柄をそう読んでもいいだろう)な表象に出会ってホモセクシュアル・パニックが掻き立てられたとき、「女のせいにする」というのが、「腐女子」バッシングの図式とよく似ていたからだ。蘇民祭のポスターは「女性向け」というよりは「男性向け」だったが(といっても、むろん、写真の男は好みでないというゲイ男性も、胸毛の好きなストレート女性もいよう)、そのことは抑圧されて、「女性に対するセクハラ」という、曖昧な、しかし、「ゲイ差別」にも似た俗耳に入りやすい言葉に置きかえられた。このすりかえは、「女性向け」とされるイメージでホモセクシュアル・パニックを起こした男が、もっぱら「腐女子」のせいにするのと構造としては同一だ。

 「ホモエロティックなもの」がもっぱら「腐女子」に帰せられるとき、人はゲイ男性の存在を安んじて忘れることができる。「ホモエロティックなもの」の表現(担い手の性別は問わない)が抑圧されることこそゲイ差別であろうに、いまや「腐女子の特殊な好み」(と見なされたもの)を公の場で語ることを抑圧する発言が平然となされている。ほっといてくださいとは、第一に、そうした風潮に対する当然のリアクションではないか?

註6 私のこの件への関心を知って、友人が朝日新聞2月1日付朝刊の切り抜きをくれた——騒ぎを振り返っての記事には、JR東日本の宣伝担当課長(名前からこの課長は女性と思われる。また、「JR東日本の」としかないが、これは東京の本社ということか)が「『全体的な印象から、大きく掲示した時、少し過激に感じたり、不快に感じられたりする方が多いのではないかと判断した』と説明」し、「胸毛や裸の是非について『胸毛や裸が問題ではない。男性の裸はほかの祭りでも掲示している』と話した」との続報がある。「セクハラ」という語は一度も出てこない。ウェブで過去記事を見直したところ、「セクハラ」と発言したのは「JR東日本盛岡支社の販売促進課副課長」(課長ではなかった。この点、本文は間違っている)であった。この人は名前から男性と思われる。

Web評論誌「コーラ」04号(2008.04.15)
「新・映画館の日々」第4回:私たちは「表象の横奪」論をほってはおかない(鈴木薫)前半

二階堂奥歯氏著『八本脚の蝶』より。
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児童文学を読んでいたころ、そこに出てくるのは女の子だった。大人の本を読み始めた九歳頃、私は「少女」というものに出会った。
「少女」は女の子とははっきり言って関係がない。それはすぐにわかった。
それはとても抽象的な存在だ。女の子や人間よりは妖精に近い。ただ、女の子と同じ姿形をしているのでとても間違われやすい。
「少女」は素敵なものだ。それは純粋できれいで観念的だ。
でも当然気付く、「少女」はすぐに大人の男の人に利用されるのだ。
それは無垢で悪魔で天使でいたずらで非日常で無邪気で神秘的で繊細で元気で優しくて残酷で甘えん坊でわがままで弱くて強くて無口でおしゃべりで白痴で悩みがなくて憂いに沈んで無表情で明るくておてんばで物静かでこわがりでなにもこわくなくて何も知らなくて何でも受け入れてくれて潔癖で閉鎖的な性質を持っている。
だから、いつでも一番都合のいい性質が選び取られて、男の人を気持ちよくするために利用される。そして、どうやら、男の人たち(私が知っていた大人の男の人とは、つまりみんな本を書いた人のこと)は「少女」と女の子の区別がつかないらしいのだ。
私は女の子だ。
私は「少女」ではない。
私は「少女」が素敵だと思う。
私は「少女」ごっこをする女の子になった。
素敵な抽象物になろうとした。
お手本は例えば美術館で見た天野可淡の人形。
でも勿論私は自分が「少女」じゃないということは知っていたのだ。
そして大好きな「少女」を都合よく利用して卑しめる心性に対して敏感になった。
なにしろ「少女」は女の子のようには実在しないから、その観念を持つ者がきちんと護らなくては消えてしまうのだ。

その内私は女になった。女の場合はもっとすごい。
女の子と「少女」よりもっともっと混同されているのだ。
出版物や社会組織を成り立たせている言説に出てくる「女」はどうやら大抵女の子の成長後ではなくて「少女」の成長後のことらしい。文学に出てくるのも、哲学に出てくるのも。
私は「女」ごっこをする女になった。
「女」の仮装をする女になった。
「女」は「少女」程素敵ではないのだが、やはり高度に抽象的な美しい概念だ。
そしてなにより、「少女」でなくても女の子はなんとか上手くやっていけるかもしれないが、大抵「女」じゃないと女は上手くやっていけないのだ。
能力(仕事、学力、趣味、なんでも)が高い女がいても、「女」度が低いと減点される。
「女」度が高くても、能力が低ければとてもよく利用される。
両方ちゃんとできてやっと一人前だ。
私は「女」ではないのをはっきりと知っている。
それが架空の存在であることをはっきり知っている(なにしろ女だから)。
だから、私はまた素敵な抽象物になろうとした。
自分の躰は着せ替え人形だと思う。
問題なのは、着せ替え人形はいくつでも持つことができるが、自分の躰は一つしか持てないということだ。
このたったひとつの着せ替え人形で私は遊ぶ、メイクやお洋服や小物を入れ替えて遊ぶ。
この躰は私が作った。いろいろなイメージを投影した作り物だ。
女を素材にして「女」を作ってみました。
ドラァグ・クイーンの知人が何人かいる。
ドラァグ・クイーンとは、表象的・社会的に女性的とされている記号を意識的に過剰に身につけた人間のことで、通常男性である。とにかく派手なドレスを着て、激しく化粧をして、女性性をパロディ化する。
肉体すべてをその観念の金属でできた着せ替え人形にしてみた。
私は、女のドラァグ・クイーンだ。
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「女」という言葉

「いやだわ、あの子……」
眉をひそめ、詩織は思わずそう呟いた。

それは、詩織がうたた寝から目覚めた夕方の出来事だった。2階の寝室の窓から,何気に外を見た詩織の視界に、奇妙な光景が映ったのだ。
「ん?…何してるんだろ?…あの子…」
あの子とは、隣の家の中学生のことだ。一階にある少年の部屋は、詩織の寝室から眺めることが出来る。直線距離にして、およそ15メートル程だろうか。この辺りは、なだらかな丘を切り崩して出来た新興住宅地であり、詩織の家は、少年の家より若干低い位置に建てられていた。そのため、2階とはいえ詩織の寝室は、少年の部屋よりもほんの2、3メートル高いだけなのだ。最近暑くなってきたせいだろう、その日は窓が開かれていた。窓から見える部屋の中には勉強机が一つ置かれており、その部屋の主人は、今はその机に向って座っていた。それだけ見れば、ただ中学生が勉強でもしているかのように見える。しかし、机の上には特に勉強道具が置かれているわけではない。何か少年の様子がおかしいのだ。少年は、必要以上に身を小さくして座り、机の上に上体を乗り出すようにしている。そして、身体を小刻みに震わせているのだ。お腹でも痛いのだろうか、その表情はどこと無く歪んで見えた。
「なんで、あんなにモゾモゾ動いて?…なんか…苦しそうな顔してるけど……あ!」
突然少年が、椅子の背もたれに体をあずけるように上体を反らしたのだ。その動作により、机の影に隠れていた少年の下半身が姿を現した。
「…あ、あの子…あの子ったら…」
詩織の目に映ったのは、なんと、丸出しにされた少年の下半身だった。少年は、右手を股間の中央に添え、せっせと上下に動かしている。誰が見ても、彼が何をしているのかは明白だった。
「いやだわ、あの子……こんな明るいうちから、あんなことして…」
汚いものでも見るようにそう呟いては見たものの、詩織は、近所の少年の秘密の行為から目が離せずにいた。少なからず、詩織も興味をひかれたのだ。
男の子…特にあの少年くらいの年頃は、何よりも性に興味を持っている。頭の中は女性の裸で一杯で、些細なことで幼いペニスを勃起させ、貪欲に自慰にふける。詩織は32歳。それくらいの知識は持っている。しかし、実際にその行為を見ることは、これが生まれて初めてのことだった。
「あんなに激しく…痛くないのかしら?…顔は苦しそうだけど…」
詩織は、下半身に微かな疼きを感じながらも観察し続けた。少年の手の動きが速くなる。それと呼応するように、詩織の鼓動も高鳴っていく。
「す、すごい…右手…あんなに速く…おちんちん火傷しないのかしら?…ん?…あの子…まさか?…」
右手の動きが一層速くなったと思った次の瞬間、少年は左手を股間に移動させた。恐らく、これから噴出する若い性を受け止めるためだろう。そして彼は、再び机に覆い被さるような姿勢になった。
「あの子…い、今…しゃ、射精してる?!」
少年の上半身が、2度3度と大きくビクッビクッと打ち震える。まるで電気ショックでも受けているかのようだ。その後少年は、体を伏せたまま身動きをしなくなった。微妙に両肩だけが揺れている。詩織には、『はぁはぁ…』と少年の吐息が聞こえてくるように感じられた。
「イ、イっちゃったんだ…あの子…」
少年の全てを見終えると、詩織は顔を上気させながら、再び身体をベッドに横たえた。

「やだ…私…パンティ濡れちゃってる…」
詩織は興奮していた。その興奮の度合いが只ならぬことは、美しいレースを施したパンティの染みの広がり方を見れば一目瞭然だ。恐る恐るパンティの中に手をしのばせる。すると詩織の指先は、秘所から溢れ出た愛液でグッショリと濡れてしまった。
「あぁ…こんなに…恥ずかしい…」
テラテラと光る指先を見て、詩織は思わず顔を赤らめた。自分とは20近く歳の離れた、まだほんのお子様の自慰を見ただけで、こんなにも興奮してしまった自分が恥ずかしく思えたからだ。
「あ〜自己嫌悪…何よ、子供のオナニーを覗いたくらいで…でも…初めて見た…あんな風にするんだ…」
いまだ詩織は興奮覚めやらぬ様子だ。目を瞑れば、少年の姿がくっきりと脳裏に浮かぶ。苦しそうな、それでいて恍惚とした表情。激しく上下する右手。そして余韻に打ち震えるか細い両肩。それらを思い返すと、また股間が『ジュン』と切なく疼いてくる。
「いやだ、あの子ったら…あんなに一生懸命…あんなにいやらしい手つきで……あ…あぁ…」
詩織の右手は、いつのまにか再びパンティの中に潜り込んでいた。的確に急所である肉芽を捉える人差し指。そこは既にプックリと膨らんでいる。秘所から溢れる愛液を指にまぶし、擦るように弄ぶと、さらに多量の愛液が、タラタラと秘所から溢れだす。
「…ぁ…あぁ…な、なんてこと…こ、これじゃあ…私…あ、あの子と同じゃない…で、でも…あ…き、気持ち…いぃ…あぁ…」
少年の姿が自分とオーバーラップする。だが既に詩織には恥ずかしいなどという感情は無かった。それどころか、さらに貪欲に快楽を求めようと、人差し指、中指と、2本の指をいよいよ膣内に潜り込ませる。
「う…あぁぁ!…」
ビクンと身体を打ち振るわせる詩織。32歳の熟れた女体が、艶かしくベッド上で踊る。
「ぼ、坊や…き、気持ちいいの?…そ、そんこと…ひ、一人で…していて…気持ちいいの?…」
あたかも少年に語り掛けているような、吐息混じりの言葉。彼の姿を思い出しながら、さらに詩織は指先を生き物のように這い回らせる。
「ぁ…ああ!…ぼ、坊や…もっと…もっと、ちゃんと見せて…おちん…ちん…私に見せて!」
詩織には残念なことに、少年の肝心の部分は、距離が遠いためしっかりと見えていなかったのだ。少年のペニスを、詩織は必死に思い描く。当然詩織は、まだ中学生の子供のそれなど一度も見たことは無い。中学生のペニス。そんな言葉が頭に浮かべば、更に詩織の興奮は増していく。
「う…うぅ…ど、どうなってるの?…坊やのは…あぁ…も、もう…毛は生えてるのぉ?…」
頭を振り、髪を乱しながら、手淫を続ける詩織。いつしか、子供のペニスを自分の思うように弄びたいという気持ちが沸き起こってくる。少年の、まだ穢れを知らぬ幼い肉棒。詩織の頭の中には、下半身を丸出しにし、恥ずかしそうに自分のペニスを扱いている少年の姿が映し出されていた。
「ねぇ…ねぇ、坊やぁ…ぁ…あぁ…もっと…もっと、よく…よく見せてぇ…ぁ…あぁぁぁ!…」
妄想の中の少年が射精をすると同時に、詩織も快感の波にのまれていった。

その日から詩織は、少年の部屋を観察するようになった。もちろん、少年の痴態をもう一度覗くためだ。しかし、翌日も、またその次の日も、あの時のような衝撃的な事件は起こらなかった。わかった事といえば、隣の少年は、夕方の4時から4時半頃に帰宅するということくらいだ。
「ふぅ〜あの子、そんなにしないのかな?オナニー…中学生の男の子は毎日してるって、何かの雑誌に書いてあったけど…もっとも、いつもこの時間に、ってことも無いか…」
ふと自分のしていることが、愚かしく思えた詩織だった。
「フフ…やぁね、私…何してるんだろ?これじゃあ、ストーカーじゃない。あの子のこと考えてオナニーなんかしたり…欲求不満なのかなぁ?…ん?…あ!…あの子だ!」
第二の事件は、詩織が『少年覗き』をはじめて、3日目のことだった。

(あった!やったぁ!)
少年は、部屋から見える隣の家のベランダを見て歓喜した。道行く人の目に付かないよう、他の洗濯物の影にひっそりと干された、白、黒、ベージュといった落ち着いた色合いの布切れ達。それらは、隣の美貌の人妻、憧れの詩織のパンティだった。
(この前から、1・2…3日目か。よく我慢したなぁ…僕、もう限界だよ…)
既に膨らみ始めた股間に手を当てながら、少年は、涼しげに揺れるパンティをうっとりと眺めていた。

同年代の男の子と比較すると、はるかに、この少年はおくてだろう。何しろ、女性の身体に興味を持つようになったのは、今からほんの1週間前のことなのだ。それは悪友の一人に見せられた1冊の「エロ本」がきっかけだった。そこには、挑発的な笑みを浮かべた、妖しい女神達がひしめいていた。張りのある大きな乳房を惜しげも無く晒した女神。滑らかなウェストラインをしなやかにくねらせる女神。極端に短いスカートから、色鮮やかなパンティをのぞかせる女神。その全てが稲妻となって、少年の脳を、そして股間を直撃した。瞬きも出来ずにいる少年に、悪友が含み笑いながら話しかける。
「おまえ、勃ってんだろ?」
「え?」
「勃起してんだろ?」
「ボ?…ボッキ?…」
「なんだよ勃起も知らないのか?チンコだよ。チンコ、今、硬くなってんだろ?」
「え?…う、うん…な、なってる…」
「へへ…そうだろ。俺だってこの本見たら、シコらずにいられないもんな」
「シコ…る?」
「おまえ、ほんと、何も知らないんだな…まぁ、いいや、家に帰ったらさ、この本のこと思い出して、チンコを手でしごいてみろよ」
「しごく?…ど、どうなるの?」
「いいから、やってみろって…病みつきになるぜ」
悪友の言ったことは嘘ではなかった。家に帰るなり自分の部屋に閉じこもり、帰宅途中でも萎えることの無かった自分のペニスを取り出してみる。それは、当然のように皮を被った、まだ幼い肉棒だ。そして、慣れない手つきで悪友の言った通りにペニスをゆっくりと扱き始めると、蕩けるような快感が、少年の下半身に広がっていく。
「は、はうぅ…な、何…これ…あ…あぁぁぁぁ…」
生まれて初めてのオナニーと射精。初心な少年は、すぐさまそれの虜になっていった。そして、女性の裸に興味を抱き始めた少年の最初の標的が、詩織だったのだ。詩織が隣の家に嫁いできてから3年。少年は、最初はただ純粋に、美しい大人の女性に憧れを抱いていただけだった。しかし3日前、隣のベランダに詩織のものと思われるパンティを発見した時、その思いに少々邪まな気持ちが芽生えてしまったのだ。
(あれ…し、詩織さんの?…)
隣の家には、女性は詩織しかいない。そのパンティは詩織のもの以外には考えられなかった。ペニスが急激に勃起する。オナニーを覚えたばかりの中学生に、憧れの女性のパンティを見て興奮するなと言うほうが、土台無理な話であろう。
(もっと…もっと、よく見たい…)
危険だとは思いつつも、窓を開け、机に身を乗り出して目を凝らす少年。この前見た「エロ本」の女神達のような色鮮やかなものではない。シックな感じの大人の女性のパンティだ。それらを眺めながら、大急ぎでズボンとパンツを引き下ろし、少年は机の下で激しく右手を動かし始めた。
(はぁはぁ…あ…あぁぁ…し、詩織さん…詩織さん!…あ、あぁ…僕…もう、だ…駄目だぁ…)
詩織のパンティ。それは、少年にとって余りにも強力な興奮材だった。あと少しというところで、身体を起こして椅子にもたれかかり、少年は、更に強くペニスを扱きたてていく。
「は、は、はぅ…はううぅぅぅぅ…」
その日、少年は最高のオナニーを経験した。ベランダのすぐ隣にある部屋の窓から、詩織本人に覗かれているとは、気付きもせずに。

そして今日、再び詩織のパンティがベランダに干され、悩ましげに風に揺れている。もっとも詩織本人は、自分の下着が少年をオナニーに駆り立てたなどとは、夢にも思っていなかった。
(フフフ…お帰りなさい、坊や。今日はどうするの?オナニーしないの?…坊やがオナニーしたのは、もう3日前よ。あんまり溜めとくと、身体に良くないのに…私、もう一度、坊やがオナニーするところ、見たいんだけどな…出来たら、おちんちんを、私によ〜く見えるように擦ってほしいんだけど…だってこの前、全然見えなかったんだもの…)
しかし、詩織の期待とは裏腹に、少年はただ窓の外を見つめているだけだった。窓が閉まっているため、少年の姿はよく見えないが、特に怪しい行為をしているわけでもなさそうだ。
(なにしてるのよ…坊や、早くオナニーしなさいよぉ…ほらぁ…エッチなこと考えて…坊やは、どんなこと考えるの?オナニーする時…なんでもいいから、いやらしいこと考えて…ぁ…あぁん…)
既に詩織の右手は、パンティの中に潜り込んでいる。実はこの3日間、詩織は決まってこの時刻にオナニーをしていた。まだ見ぬ少年のペニスを想うと、自分ではどうすることも出来ないほど、下半身が火照ってしまうのだ。その度に、濡れる股間に右手を這わせ、慰めずにはいられなかった。
(…はぁ…あ…あぁん…もう…坊やがしないからぁ…私がぁ…あぁ…坊やぁ…あんまり…じ、焦らさないでぇ…)
詩織はキャミソールにパンティといった装いだ。右手で秘所を弄びながら、左手をソッと裾からキャミソールの中に潜り込ませる。ブラジャーをしていない乳房の頂点で、痛いほどツンと立ち上がった乳首。それを摘むと、甘く切ない刺激が乳房全体に広がっていく。しかし、その時…。
(…ん?…あら?…坊やが…窓を開けた…でも、ほんの少し…え?な、何?…どこを見てるの?…坊や?…)
詩織の手の動きが、ピタッと止まった。

(この前、最高だったもん…詩織さんのパンティを見ながらのオナニー。3日も我慢したんだから…よ〜し、思いっきりオナニーするぞ…まずは、窓を少しだけ開けてっと…)
少年は、この前と同じように窓を開けた。しかし今度は、顔を出せる程度しか開けなかった。
(後になってから、冷や冷やしたもんな…こんなところ、誰かに見られたら自殺ものだよ)
パンツを下ろし、ペニスを擦り始める少年。そして、しっかりと詩織のパンティを目に焼き付け、頭の中で「エロ本」の女神達の顔とパンティを、詩織のそれに置き換えてみる。詩織の微笑、詩織の乳房、詩織のパンティ。少年の右手は徐々に加速していく。

(ぼ、坊やが…坊やが、見てるのは?!)
ある意味で、詩織は、少年のオナニーをはじめて見た時よりも強い衝撃を受けた。少年が見ているもの。窓を少しだけ開けて、恐る恐る顔を出した少年の視線の先にあるものは、間違い無くベランダに干した自分のパンティだったのだ。
(ぼ、坊や?…あなた…私の…私のパンティを見つめてるの?…そ、そう言えば、あの日も…)
詩織は、3日前もパンティを洗濯し、今日と同じようにベランダに干したことを思い出した。そしてあの時、少年が自慰をしている最中、机の上に身を乗り出すようにしていたことも。
(坊や、あなた…わ、私のパンティに興奮してるの?…ま、まさか、そんなこと…で、でも…)
まだあどけなさの残る少年が、30を過ぎた自分のパンティに興奮しているという事実が、詩織には信じられなかった。中学生ならば、どうせアイドルや同級生の下着姿でも妄想して、オナニーに励んでいると決めつけていたからだ。しかし今、確かに少年の目は、自分のパンティに釘付けになっている。そして、その興奮を裏付けるように、彼はオナニーをし始めたではないか。
(あぁ…坊やが、オナニーしてる…私の…私のパンティを見ながら…。そう…そうだったの、坊や…あなたは、私のことを想いながらオナニーしてたのね…)
中学生のペニスを膨らませたのは、自分なのだ。中学生をオナニーに駆り立てたのは、20近く歳の離れた私だったのだ。ナルシスティックな陶酔感が、詩織の思考を支配していく。
(そうだったの…ごめんね、坊や…全然、気がつかなくて…坊や、ちょっと待っててね…洗濯物なんかよりも、もっといいものを見せてあげるから…)
自分を想い自慰をする少年の姿を見ているうちに、詩織は、いてもたってもいられなくなってきた。そして、まるでそうすることが自分の使命であるかのように、部屋着の薄手の超ミニスカートを身に着けると、少年のギラギラとした視線の待つベランダに急いでいた。

(あ!や、やば!し、詩織さんだ!)
少年の驚きは、只ならぬものだっただろう。何しろ「わるさ」の真っ最中に、妄想の主人公が姿を現したのだから。少年は、慌てて窓から飛び退いた。
(まさか…見られてないよな?…)
ソロソロと窓に忍び寄り、再びベランダの方を覗ってみる。すると彼女は、少年の部屋に背を向けて、あの悩ましいパンティ達を1枚1枚取り込んでいた。その様子を見ると、どうやらこちらのことは気付いていないようだ。少年は、ホッと胸をなでおろした。
(良かった…詩織さんには見つからなかったみたいだな…でも、残念だな…もう、パンティしまっちゃうのか……ん?…あっ!)
少年は、下半身を丸出しにした情けない姿のまま、全身を硬直させた。彼の目は、またしてもパンティに釘付けになってしまったのだ。しかし、今度は風になびく洗濯物のパンティなどではない。それは紛れも無く、実際に詩織自身が履いている、生々しいパンティだった。
(う…う…ぁ…し、し、しお、詩織さん…詩織さんの…パ、パンティだ!)
詩織が洗濯物を取り込もうとするたび、超ミニスカートからチラチラと白いパンティが見え隠れしている。干されているパンティを見ただけで股間を膨らましてしまう少年にとって、これほどの衝撃は他に無かった。
(は、はうぅぅぅ…し、詩織さん…詩織さん!!!)
あまりにも悩ましい人妻のパンチラに、少年の包茎は、腹につかんばかりにピンと天を向いていた。そして知らず知らずのうちに、少年の右手はその勃起を擦りたてている。
(あ、あん!詩織さん…詩織さん…スゴイ…スゴイよぉ…あ!詩織さんがこっちを…)
詩織が少年の方に身体を向けた。しかし、こちらには気付いていないようだ。少なくとも少年にはそう思えた。安心してオナニーを再開する少年。もっとも今のこの少年には、例え詩織にその行為を見られたとしても、オナニーを止めることなど出来なかっただろう。未だ見ぬ女性のアソコに張り付く魅惑のパンティ。そして、少年はその名前さえも知らぬ白い薄衣は、二つの豊満な乳房に押し上げられ、詩織が動くたびにユッサユッサと揺れている。大人の女の身体。少年はその全てに魅了されていた。

(あぁ…ぼ、坊やぁ…み、見てる?…ほらぁ…パンティ、見えるでしょう?…坊やのために、こんな恥ずかしい格好で出てきたんだからぁ…キャミソールの下…ブラジャーしていないのよ…ちゃんと見てぇ…あ…でも、なんか私も…興奮しちゃう…あんな幼い子に見られていると思うと…あぁ…感じるわ、坊やの視線…)
詩織は、もはや立っているのが精一杯だった。少年の視線が、無防備な股間に突き刺さってくるようだ。まさに今、自分は中学生の少年に視姦されている。それを意識すればするほど、興奮の度合いが高まってくる。止めど無く溢れる愛液が、パンティをグッショリと濡らしていくのが、自分でも良くわかる。
(あ…あぁ…もう駄目…これ以上は、もう…こんなにパンティを濡らしたら、坊やに気付かれちゃう…ご、ごめんね、坊や…パンティくらいなら、いつでも見せてあげるから…。ね?今日はこれぐらいで堪忍してね…)
これが最後のサービスと言わんばかりに、詩織は洗濯物を抱えるフリをして、ミニスカートの裾を目一杯捲り上げた。今や少年の目には、セクシーな白いハイレグカットのパンティの全容が、真正面からしっかりと見えているに違いない。その場にしゃがみ込んでしまいたくなるような衝動を必死に押さえ、やがて詩織は家の中に消えていった。

(あぁ…詩織さん…詩織さん…うあ!…ス、スゴイ!白い…白いパンティ…あ…うあぁぁぁ…)
詩織の最後の挑発を見た瞬間、少年は溜まりに溜まった3日分の精を放っていた。

(駄目!もう我慢できない!)
寝室に戻るや否や、洗濯物を放り投げ、詩織はベッドに崩れ落ちた。そして、キャミソールを取り去り、スカートを脱ぎ下ろす。豊満な乳房を隠そうともせず、パンティ一枚の姿で横たわる人妻・詩織。部屋一杯に、むせかえるような牝の匂いが充満していた。
「い、今ごろは、坊やも…ぁ…ああぁぁ…私のパンティを想像して…おちんちん、擦っているのねぇ…あふぅ…い、いえ…もしかしたら…も、もう…漏らしちゃったかも…あ…あぁん…」
左手で乳房を揉みしだき、狂ったように右手をパンティの中で躍らせる詩織。煩わしくなったのか、横たわったままパンティを摺り落としていく。一文字となって、太腿の辺りに纏わりつく白いパンティ。遮るものが無くなった叢を掻き分け、肉芽を摘み、止めど無く溢れる愛液の源泉に深々と指を潜らせていく。
「はぁはぁ…坊やぁ…坊やぁっ!あっ!…あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…」
詩織の姿態が、ビクン、ビクンと痙攣する。激しい絶頂を向えた詩織は、やがてグッタリとベッドに沈んでいった。

翌日、少年は夕方4時前に帰宅した。いつもより早い時刻。もちろんそれは、昨日の夢のようなシーンを期待してのことだった。
(詩織さん…今日も…な〜んて、そんな都合のいいことあるわけないか…でも…エヘヘ…一応、ベランダを確認して…あ!…)
期待はしていた。だが少年は、2日も続けて、そこに詩織がいようとは思ってもいなかったのだ。
(あぁ…詩織さん…ん?…あ、あれは!…や、や、やったぁ…きょ、今日もだ!)
少年は歓喜に震えた。何故なら、今日もまた、詩織は自分の下着を干そうとしていたのだから。

(あらあら、今日は随分と早い帰宅なのね、坊やったら…ウフフ…そんなに私のパンチラが気に入ったのかしら?)
少年の帰宅を知った詩織の唇に、どこと無く卑猥な笑みが浮かんでいる。詩織は確信していた。あの少年は必ず、今日もベランダを覗くに違いないと。だからこそ、今日はこのベランダで少年の帰宅を待っていたのだ。詩織は、洗濯を済ませた昨日の白いハイレグカットのパンティを手にしている。
(ねぇ?坊や…今日はもっと、面白いことをしてみない?…そうよ…もっと早く気付けば良かった…二人で別々に、オナニーすることなんて無かったのよ…)
そして詩織は、わざと白いパンティを干す手を緩めた。詩織の手から離れ、ヒラヒラと風に舞う白い薄布。それは、詩織がうぶな獲物に目掛けて放った一本の矢だった。そして見事にその矢は、獲物の部屋の前にフサッと落ちた。
「あら、いけない。あっ、坊や、いいところに…洗濯物、落としちゃったのよ。お願い、それ、持ってきてくれない?」
詩織の股間が、また『ジュン』と濡れ始めていた。

Seductive Madam(z) -peep-

帰らない日々 (2007) Reservation Road

弁護士ドワイトは、離婚した元妻ルースと暮らす中学生の息子ルーカスと、週一回の面会を許可されている。

ドワイトとルーカスは、野球ファンだ。面会のたびに、野球の話で熱く盛り上がる。お気に入りはレッドソックスという球団。

ルースは、ルーカスに、野球を観るのをやめなさいと教育する。

ルースとドワイトが何故離婚に至ったのか、映画の中では、何度も示唆されている。

ドワイトとルーカスのシーンのはじまりは、とにかく野球中継の大写し。

野球場での興奮した応援。川辺で石投げをしていても、野球の真似として語り合う。

ドワイトは野球観戦を通してしか家族との接点がない。ルーカス以外の家族との接点がない。

離婚に至ったのは、ドワイトが熱狂的な野球ファンだからだ。

ここで、野球を知らないかたのために、それがどういうものなのか解説しておこう。
野球とは、バットという陰茎とボールという睾丸とグローブという肛門を使って、男同士の絆を深めあう風習である。
女性嫌悪と同性愛嫌悪を身につけていることが参加するための絶対条件とされる。
陰茎、睾丸、肛門の愛好と、同性愛嫌悪が結びつくのは不可解だと思うだろう。
実は、ここでいう同性愛とは、極めて限定的なものを指すのだ。
野球のメンバー間では男性間の肉体的接触が頻繁に行われる。
それを同性愛と呼ばないだけだ。
自分たちが行うタイプの同性間性交渉は、仲間同士の絆と呼び、自分たちが行わないタイプの同性間性交渉は同性愛という蔑称で呼ぶらしい。
つまり、この同性愛嫌悪は、「自分たちのセックスはすべて正しく、自分たち以外のセックスはすべて間違っている」と言っているに過ぎない。
理屈もへったくれもない男の自分たち崇拝である。
また、野球では、知らない他者が決めた理屈もへったくれもない男のルールをやみくもに守って、陰茎、睾丸、肛門の使いかたを裁く。
陰茎、睾丸、肛門を、ルール通りに使える者が、理屈もへったくれもなく男の野球のスターとされる。
理屈もへったくれもない野球を好むのは、一部の、理屈もへったくれもない男のマチズモ好事家だけである。
(ちなみに、野球を好んで観るかたの中には、野球選手の大きな尻に性的に興奮するゲイもいて、彼らはマチズモ好事家ではないかもしれないが、野球好きなのではなく尻が好きなのである)

この映画のドワイトは、野球が大好き。もちろんマチズモ好事家だ。
息子と野球を楽しむ。マチズモ好事家だ。
野球を通して、息子と男らしさを肯定する。実際、男らしくあれとルーカスを教育する場面も描かれている。マチズモ好事家だ。

ドワイトが息子に対して行うことは、この二種類のマチズモ好事だけだ。他には何もしない。
子供にマチズモ好事を叩き込むこと。

それだけがマチズモ好事家にとっての家族制度における父の役割だ。
息子もそんなマチズモ父を慕ってやまない。
男であると承認されて、つまり、差別主義者であると承認されて気持ちが良いのだろう。
そうして、権力という集団幻覚に承認幻覚による快感を見出す中毒者が一体出来上がる。
幻覚でないのは、彼らの及ぼす被害だけである。

かつて、厚生省では、男性の育児参加が不十分であるために、女性にばかりに育児の負担がかかっていることを解消するため、「子育てをしない男を父親と呼ばない」というキャッチ・コピーのついたポスターを造ったことがあった。

この場合の「子育て」は、曖昧だ。

男の子とはキャッチボールして、マチズモ好事家である自分のコピーを製造する。
女の子には男の目を楽しませる身なりを叩き込んで、マチズモ崇拝者を製造する。
それがマチズモ好事家にとっての、「『父親らしい』子育て」だ。

だから例のキャッチ・コピーにひとつ補足したくなる。

野球好きの男を父親と呼ばない。

ある日、ルーカスは三日間の停学処分になる。

同級生がふざけて水風船を教師の背中にぶつけた。その同級生は自分がやったことと証言しなかった。

ルーカスは、それを卑怯だと同級生と責め、殴り合いの喧嘩になったことが停学の原因だった。
ルーカスは、ドワイトにその顛末を話すと、「理由がどうあろうと、とにかく殴るのは悪い」と、言い分には聞く耳を持たない。

さすが、理屈もへったくれもない男のルールをやみくもに守るのが大好きな、理屈もへったくれもない男の野球ファンである。

ところで。

野球についてばかり書いたが、この映画は実は、「野球好きの悪辣さ」がテーマの映画ではないのだ。
ただ、野球好きは性差別主義者である、という、見た通りのことが共通見解となってストーリーが進行していく。

日本では、驚くべきことに、野球好きは軽蔑すべき対象とはされていないようだ。

「アメリカ南部白人」は「人種差別、性差別主義者」の代名詞として否定的に使われるが、「九州男児」という言葉には否定的な意味合いが付与されることは一般にはほとんどない。日本における「野球ファン」も同様だ。恵まれているというか、甘やかされているというか。

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特に非のない映画ではあるが、観ているあいだ、苛立ちを禁じ得なかった。

それは、映画の中で描かれる野球の試合や野球ファンの姿への苛立ちというより、むしろ、勝手に想像した日本の鑑賞者への苛立ちだった。

野球に過剰に「理解ある」優しい日本のマジョリティが観ていることを想像した。

ルースとドワイトの離婚の理由が、念を押して何度も「野球」と描かれているにもかかわらず、野球を問題視しない鑑賞者にはその理由をわからないだろう、と想像した。

ドワイトは、ルーカスとの野球観戦からの帰り道の車で、子供を轢いてしまい、そのまま逃走する。

ルーカスには、丸太に当たっただけだ、と嘘をつく。

事故の翌朝、弁護士事務所で約束していたクライアントの女性との面会の時間に遅刻してしまう。

「トラブルがあって遅れた」と言い訳をし、クライアントの機嫌を損ねたかもしれないフォローとして、「綺麗だね。少し痩せた?」と続ける。
男が暴力で組み伏せやすいように痩せている女を綺麗な女と設定するマチズモ好事家の好みしか見えていない意見を言い、視野の偏狭さを露呈する。

一方、車に轢かれて死んでしまったのは、十歳のジョシュ。

心優しいジョシュは、瓶に捕獲したホタルを、「そのままではホタルが死んでしまう」と母親のグレースに言われ、ホタルを逃がしていたところだった。

グレースは、自分が言ったことでジョシュを死なせることになってしまったと罪悪感を抱く。嘆き戸惑いながらも、残された夫や娘との生活を大切にしようと気丈に先を見つめる。

ジョシュの妹エマも、また悲しみの先で、ジョシュを悼み、天国のジョシュに音楽が届くようにとピアノの練習に励む。

しかし、ジョシュの父イーサンは、なかなか進まない警察の捜査に苛立ちながら、轢き逃げ犯への憎しみに取り憑かれていく。

そして、ジョシュが事件を追うために依頼した弁護士は、轢き逃げ犯のドワイトだった。

ジョシュとエマの母グレースは、悲しみの向こうで、怒りをもって、エマを守る。
男の、男としての憎しみから。
ルーカスの母ルースは、間違った結婚という悲しみの向こうで、怒りをもって、ルーカスを守る。
野球から。男の、男としてのナルシズムの共有から。

イーサンのとりつかれた憎しみは、男性性が、悲しみを憎しみへ変貌させてしまったもの。

イーサン自身の内にある、父親という、男の自尊心。

ドワイトの背後にある、野球という、男の自尊心。

グレースは、母として子を愛しているのではない。

かけがえのない、そこにしかいないジョシュやエマを愛していた。

ルースは、母として子を愛しているのではない。

かけがえのない、そこにしかいないルーカスを愛していた。

ドワイトは、父親という立場を通してのみ、男の子を愛していただけ。

イーサンは、父親という立場を通してのみ、子供たちを愛していただけ。

そして、イーサンは、それ以降の出来事を通じて、憎しみに擬装された悲しみを、ただ悲しみとして受け入れられるようになってゆく。

イーサンが、夫や父親という「立場」ではなく、ジョシュを、エマを、グレースを愛する者になっていく軌跡は、感動的だ。

だから例のキャッチ・コピーにもうひとつ補足したくなる。

父親という自分の役割を愛するより、目の前の子供を愛そう。

帰らない日々

フィードラーの本から、「ホモエロティック」という別に新しくもない言葉を持ってきましたが、これの利点は、今、ホモソーシャルを腐女子がホモセクシュアルに読み替えると知ったかぶりに言われていますが、実はその手前ですでに男同士の関係性が(腐女子の手が触れずとも)エロティックなものとして成立していることを示せるところではないでしょうか。

ちょっと考えていたのは、やおい/BLはポルノじゃない、と言う人は、何を言おうとしているのかということ。
ポルノじゃなくても、「ホモエロティックなもの」にぐっと来ているんですよね。
フィードラーから引用した中に、「作中人物やその作家たちが男色に耽っていると主張しているのではない」とあるでしょ。『男生女相』に出てきた武侠映画の監督も、男たちの関係性を利用しているのであって、三国志の英雄たちがホモセクシュアルだったというんじゃない、というようなことを言ってましたが。

それをホモフォビアと呼ぶ必要は必ずしもないけれど、そこで踏みとどまる必要もないわけで。

あと、女にとってこの「ホモエロティックなもの」とは、勝手に思い描いているわけでは全くなく、本来は、女には入り込めない、当事者になれない、そもそも(過去の時代には完全に)そこから閉め出された文化の中の領域をaprropriateしているわけで、その意味では贋物だけど、ゲイを好き勝手に representしているというのは大嘘だと思っています。

2008年 03月 26日 補遺

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その後ひめゆり祈念公園へ移動した。ひめゆり学徒として生き残った女性の話は衝撃的で、戦争のイメージがふくらんだ。しかし正直に言うと、女性の話は退屈だった。彼女が話すほどに、直前の防空壕での強烈な印象が薄れていったからだ。彼女は何度も話しているから、話すたびに話がうまくなっていったのだろうと感じた。彼女の話は、まるで母親が赤ちゃんにベッドで話すように、易しく聞こえた。何人かの友人は彼女の話に心を動かされていたのだが、私にとっては彼女の話は何の意味もなさなかった。
=====

 これと並行的な、しかし、別の道を歩いた思索を紹介する。岡真理は、先に引用した本の中で、従軍慰安婦とされた女性が「私は女の歓びを知らない」と語ったと書いてあるのを読み、その表現の陳腐さにつまづいてしまった体験を書いている。

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… わたしは、身体の深みから身をよじって絞り出された、私たちの想像を絶するような、筆舌に尽くしがたい、暴力的な<出来事>のその暴力性を証すその言葉が、「女の歓び」などという使い古された紋切り型の常套句であったという、その気の遠くなるようなギャップに、愕然とするのである。そして、このとき、そのような<出来事>の唯一無比の当事者であるのだから、彼女の口から、彼女でなければ語り得ないような、オリジナルでリアルな言葉でそれが語られることを期待していた自分を発見するのである。(pp.34-35)
=====

 ひめゆりの語り部の話を聞いた高校生と岡真理の分かれ目はここにある。一方は、その語り口を陳腐さとしてあげつらい、伝わらなければ意味がないといい、問題を「伝え方」、つまりは語り手の問題として収斂させていく。それとは違う道があることを、岡真理は示している。聞き手の姿を通して、聞き手が期待するものを浮かび上がらせ、それを通じて、聞き手自身を問題の俎上に乗せるのである。

 私たちに想像可能なことは、ひめゆりの語り部が「うまくなる」までに、彼女はどれだけの嗚咽を乗り越えてきたのだろう、ということだ。初めて話すとき、二回目に話すとき、三回目に話すとき、以下同様。このように考えてくると、記憶を語り継ぐというときには想起されるべきことは、記憶それ自体だけでない、と思えてくる。同時に、記憶を抱えるその人の存在、記憶が語られるときにその記憶がその人の存在の中で再上演されるということの痛み、そうしたことがともに想起されるべきなのだ。「退屈な話」の向こうにそれを見ることができるか。それは語り手ではなく、むしろ、僕らの方が試されている、ということでもある。

 問題は、少なくとも、聞き手と話し手双方の問題である。むしろ、「聞き手の問題である」ことは、どれだけ強調しても強調しすぎることはない。さて、はたして、それは私たちに可能なことだろうか。分からない。けれども、私たちこそが試されているのだということ。そのことは忘れないようにしたいと思う。

「退屈な話」の向こうに見えるもの

ずっと後で知ったことだが、ファスビンダーは医師である父親が戦後、地区の売春業者たちを大量に診察する診療所を営業しており、彼女らの存在は当然のこととして育ったという話。よって、ファスビンダーは、売春がごく当然の人間の生活、そして生きる形の縮図として考える癖が、ある。或いは、人が人との力関係で生じる暴力性を共生可能な形で整備・表現すると性行動となり、それを金で調整しようとする売春はただただ正しいことでしかないという発想。それはこの人の映画見ていると何度も繰り返しあらわされている。そもそも売春に限らず、調整し切れない力関係の争いを微に入り細に入り検証している。それに対する当然の返答としての現象が売春。

この映画ローラは、それのおそらくは決定版であり、いい話なんだよな(いちおう「嘆きの天使」のファスビンダーカヴァー、のつもりらしいですが、全然話としては別です。比較すると面白いです)。ローラは、人気売春婦なので、町で彼女を売春婦として知らない者がいない。その役所に新しい有力役人がやってくる。ローラは、仕事も嫌だが男も総じてゲロ、という心境を生きているが、かなり「人望のあつい素敵な人」が町へやってきたらしい、という噂をきいて、これはひとついてこましたれ、と小さな町で収集できる限りの情報網を張り巡らして、アジア文化に興味があるらしいと聞いた果てに図書館でさりげなく張り込んで、簡単に「乙女素人デート」にこぎつける。で乙女のふりしてデートを続けて素人のフリして一緒に歌なんかうたっているうちにどうにかなっちゃったんだな。これ男のほうはもとよりローラの中の何かが。

「ああ、だれかと歌をうたったことなんて。教会以来だわ」

という落とし文句はそのとおり出鱈目なんだが、(だって彼女は歌手だからクラブで毎日歌ってるわけ)それで実は相手のみならず自分自身も、他人をあざむくために演じていた役にはまってしまい、

そういう間にも女ぶり渡世に夜は明け暮れて。彼女の最大顧客であり、素人デート相手の男(名前忘れた・仮にAさん)の同僚がこの町の市長なのだが、この市長に不本意に連れてこられた先でAはローラが、「NATO一のケツを持つ女」というふれこみで市長が寵愛する歌手・娼婦と知る。で、上記の歌の場面、乙女デートの対象に自分の身元が割れたのがショックでローラがぶち切れる経緯。

で、これに際してAさんは無論驚愕かつ立腹の模様だが、この精神的打撃への彼の対応の仕方がまた非常に男らしいので注目。「当のクラブ・売春宿を閉鎖する」という命令を出すことで、自分の惚れた女を「道徳の荒廃」から救おうとするんだよ(笑)。つまり、ローラは荒廃の犠牲者であり、ゲロ男子の犠牲者であって、そのレトリックなしにはローラを自分が受け入れられない、自分も受け入れられない、という心理。間違ってもローラが、好きであろうが嫌いであろうが、労働としてそれに自ら従事している、という現実は全く意識にのぼらない。とにかく彼は傷つけられた自分のエゴを救うために、そして「犠牲者ローラ」という概念を実現するために、結果的にはローラの大切な仕事場・収入源を彼は破壊しようとする。Aさんにクラブづとめ淫売業がばれてからは、クラブを買ってセックスワーカーとして独立しようとしていたローラ、これは泣き面に蜂。市長を始めとする市役所職員が一人(ローラのヒモ)を残して総てAさんの命令には抗い(だって死活問題だもんね)、市役所はセックスワーク営業是か非かを巡る大抗争に突入。

結局、この抗争はAさんがローラと結婚することで治まるのだ。そして市長は自分の愛人として彼女(その娘に)自分の財産を譲る証書を発行して、結婚式が済んだら、ローラはヴェイルをつけたままで市長とセッション(ヴェイルつけて追加料金)(Aさんはなんの用事だったかいなくなってしまう)に入るところで映画が終わる。なんていい映画なんだ。

そして、ファスビンダーの他の映画にも見られる(マリアブラウン等)ように、ファスビンダーの女は、結婚すると同時にその結婚相手が実質結婚から消える。つまり、女子にとって結婚とはサヴァイヴァルのための手段に過ぎないとして、本当は誰がそこに来ても対して変わりないという観。女子がこの「制度」に保護されることは呪いか救いか、という彼が呈し続ける疑問は、売春という結婚とほぼセットで成立するもうひとつの制度に対する彼の視点とほぼ同じである。マリアブラウンが実質夫の存在しない無人結婚を貫くためにさんざんの悪行を行って(精神上の、というか)貞淑を貫くのに対し、「ローラ」は実質売春と何も変わり無いのが結婚です、が、その実質の関係、と概念的なあしらいは、ただひとえに「男」の出方にかかっている(かかってきていた)ことをうまく捉えている。男の出方にかかっている、というのは、結局「社会機構」をつくったり社会で支配してきたのは単純に男だから、という話。あとは、男勃起させないとセックスって出来ない(生殖が出来ない)ということを軸にこの世界はある程度動いてきたので。我々が現在生きているのはそれらの歴史の遺跡の中である。この映画で、ポイントになるのはローラの貞操(幻想)を最も高値で「買う」A(モラリスト),現実的な保護(顧客であり続けること)を与え続ける市長(現実主義)、そして常に彼女の側で彼女を探心し彼女に近くある現実の上では無力なヒモ(バンドメンバーで市役所でも働いている共産主義者)(理想主義)がそれぞれの役割を演じていてこれらの意味は考えてみると有意義。

2007-07-26 ファスビンダー万歳 其の三十三

 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
 たとえば、駅の階段とエレベータを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベータは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベータを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる。…中略…
 要するに、障害は環境依存的なものだということである。人の多様性への配慮が理想的に行き届いたところには障害者はおらず、だれにも容赦しない過酷な環境には健常者はいない。…後略…(いしかわ2008:93-94)。

石川 准 2008 「本を読む権利はみんなにある」上野 千鶴子(うえの・ちづこ)ほか編『ケアという思想1』岩波書店、91-106から引用。

「配慮の平等」という視点

オレは27歳。7年前に母親が死んでオヤジと二人暮らしだった。5つ上に兄がいるが転勤で関西に住んでいる。2年前、急に11歳下の妹が出来ることになった。オヤジが再婚した。当時妹 は14歳。(ちなみに新しい母は今年40、オヤジは49だ)
再婚当初、オレは「妹」というのがどうもピンとこなかった。次男坊で25年生きてたからね。
逆に妹は一人娘だったのにいきなり「兄」が出来て、オドオドしていた。初めて会ったときには「あ、かわいいな」と思った。正直、そう思う。ネコ顔でやわらかそうな淡い色の髪をポニーテールでまとめてて。背は小さいけれど太ってもいない。そして、中学生にしては豊満なバストをしていた。オレは「おっぱい星人」なので、目の前の「妹」に激しく反応しなかせらも、心のどこかで「ウソだろ、こんなのはエロ小説の中でしかない話だ」と思っていた。だが、話はまさにエロ小説のように進んでいく……

妹は厳しく育てられていたせいか、最近のバカ厨房や工房と違って品行方正だった。最初、オレのことを「あの……」とか呼んでいたが、「兄ちゃんでいいよ」と言ったら、ものすごく嬉しそうな顔をしたのをよく覚えている。
オレは仕事とは別に下手の横好きでバンド活動をやっていて、部屋にはキーボードやらギターやらMacが積まれていたのだが、ある日、妹が某バンドのファンだということがわかり、妹の好きだという曲を軽く弾いてやったことから一気にうち解けたように思う。
妹はCDやら歌本やら持ってきて弾いて弾いてとせがむようになった。
ああ、かわいいなと思った。キーボードに並んで座っていると、思春期特有の甘い女の子の香りが漂ってくる。
でも。
妹はオヤジの妻の連れ子だ。いくらなんでもヤバイ。しかも、11歳も年下で未成年だ。
一応、ちゃんとした彼女もいるので、妹のことは「鑑賞用」として取っておくことにした。
あの日までは。

妹がウチに来て半年ほどが経ったころ、貸していたCDが必要になって、妹の部屋をノックした。
返事がない。
後ろめたさを感じつつ、中に入ると妹はいなかった。
「ま、CDだけ見つければいいか」と思って、妹の部屋を探し始めた。部屋はきれいに整理整頓されていた。だが、CDラックを探しても目的のものが見つからない。あまりひっくり返すのもよくないな、帰ってきてから頼むかな、と思ってフッとベッドの片隅に目が留まった。
ベッドの下から何か雑誌のようなものがわずかにのぞいている。本棚は別にあるから、そこに雑誌があるのは不自然なカンジがした。
なんだろうと思って取り出してみると、それは、なんと、レディース・コミックといわれる雑誌だった。ベッドの下をのぞき込んでみると何冊か見える。すべて取り出してみると6冊もあった。
オレはそれまでこういう雑誌を読んだことがなかったので、なかを読んでみて仰天した。
めちゃくちゃ過激な描写。あからさまな台詞。
なぜ、こんなものがここにあるのか、普段の妹のイメージからは想像できないので、ハンマーで頭を殴られたような衝撃だった。

今に妹が帰ってくるかもしれないというスリルを感じながらも、オレしレディコミでオナニーをしてしまった。しかし、ページをめくりながらも雑誌のある部分に特徴があることに気付いた。
ページの端を折ってあるのだ。
それは1冊につは2つ折ってあることもあればまったく折っていないものもあった。
読んでみてわかったのは。

ページの端を折ってある話はすべて、兄に犯される妹の話だったのだ。

オレはそれでもまだ半信半疑だった。

清楚な美少女。成績はよいほうで、品行方正。

オレは妹の裏の顔を知りたくなった

だからといって、どうしようと考えたのだが、妹がこういう雑誌を持っているということは目的はオナニーの「ネタ」だと考えた。

妹が、あの清楚な妹がオナニーをしている!
まだ14歳の妹が!

オレはその想像を確かめたくなった。そのためには……。
盗聴・盗撮しかない。

オレはCDのことはどうでもよくなって、その手のサイトをめぐり、必要な機材を吟味し、計画した。
ウチは古い一軒家なので、天井も昔ながらの天板だ。穴を開けるのにそれほど大変じゃない。大工道具(といってもキリくらいだが)をそろえた。

ちなみにすべての機材が揃ったのはレディコミを見つけてから1か月が経っていた。そのあいだも夜中に「オナニーしているのではないか」と壁に耳をくっつけたりしていたが、よくはわからなかった。古い家は漆喰などで案外防音性が高い。

梅雨時のある日、オヤジは出張、義理の母は妹を連れて実家に戻り、家にはオレ一人となった。オレは天板を外して天井裏に入り、妹のベッドの真上の天板にキリで穴を開け、そこにピンホールカメラを据え付けた。ラインは天井裏から自分の部屋へ引っ張った。
マイクはベッドの頭のあたりに据える。妹のベッドは頭の部分に小さなライトと、棚がついている仕様でうまくすきまにすえつけ、部屋の床から天井に着くくらいの背の高い本棚の後ろを苦心して通し、やはり穴をあけた天板を経由されて自分の部屋へ導いた。
ラインをテレビの外部入力につなぎ、さらにビデオデッキにもつないだ。

試しに妹の部屋のラジカセをベッドの上に載せ、ラジオをつけてみる。

自分の部屋に戻りテレビをつけて見ると……

ややくぐもった感じながら音が聞こえてきた。映像はバッチリ、ベッドを真上から捉えている。オレはビデオデッキを録画状態にしてから妹のベッド横たわり、天井を見上げながら、オナニーをした。
あの妹を犯していることを想像しながらペニスをしごき上げた。
「美穂、美穂」と言いながら。
むろん、マイクのテストのためながら、我ながら萌えてしまった。

自分の部屋に戻ってビデオを確認すると、きちんと録画されていた。自分のオナニーシーンをあれほど真剣にみたこともないだろう(w

そして妹が帰宅するのを待った。

その日から毎晩、オレは妹が寝る12時ころから2時あたりまでカメラを作動させて妹の寝顔をモニターしていた。カメラは赤外線式だし、妹はマメ球をつけて寝る習慣らしく、その寝顔までよく見えた。しかし、5日経ってもなにも起こらなかった。

やはり、なんかの間違いかなんかなのかな……?

そう思っていた土曜の夜。

妹がベッドに入った。蒸し暑い夜だった。妹はタオルケットをはいだ。ノーブラの胸はとてもいい張りをしているらしく陰影からみてもCカップはあると思う。 Tシャツにパンティだけという妹はおもむろにベッドの下から雑誌を取り出した。そして、オレが思ったとおり、端を折ったページを選んで、胸を揉み始めた。
ヘッドフォンをしているオレの耳に妹の吐息が聞こえてくる。

「はあっ、はあっ」

オレは無意識にペニスをつかんでいた。

妹はTシャツをはだけ直接乳首を指でころがしはじめた。赤外線映像なのでよくわからないが
妹は紅潮していたように思う。
「はあっ、はぁっ、あああ」と美少女の眉が八の字に折れ曲がる。

その表情に「あ、やばい」と思ったが、そのあとの妹の声がトドメを刺した。

「カズヤお兄ちゃあん、、、おにいちゃんんんんっっ」

オレはその言葉で不覚にも出してしまった。

妹の指はおそらくピンク色であろう乳首をさわさわとなでていたが、つまんで上にひっぱったり、左右にねじったりしていた。オレは彼女にもオナニーを目の前でさせているが、あの手の動きはかなりこなれていると感じた。

もう
あの清楚な妹がオナニー常習だったのだ。

「あんっ、あ、お、お兄ちゃん、やめて」

そう言いながら、妹はパンティーの中に指を滑り込ませた。
腰がぴくんと跳ねる。
よく発達した妹の太股の影に隠れてよく見えないが、指が激しく動いているのだろう。

「お、おにいちゃん! だめっ、だめだったらああっ、私たち、兄妹なの、イケないよぉぉ、そんなにクチュクチュしないでぇ、、」

気付いたら放出したばかりオレの息子は再びギンギンになっていた。

妹の手首がぐぐっと深く進むように見えた。

……指を、入れたな

「お願い、なんでも言うこと聞くからぁ、入れないで、入れないで、お願いっ、入れちゃだめ、美穂、初めてなの、だから、あああっ、あうっ、気持ちよすぎるからああああ」

そのとき、妹の腰がカクンカクンと上下に揺れた。

……イッたのか?

あの妹が。

ネコ顔で、ポニーテールが似合っていて、身長155cm、バスト83(Cカップ)……あとで実測したのだが……品行方正のはずの、美穂が夜になるとこんなに淫靡な一人遊びをしていたとは。

オレはその日のビデオで何回抜いたかわからない。

むろん、妹ウォッチは毎夜のように続けていた。

半年ほど観察を続けていてわかったことは、妹は基本的に毎週土曜にオナニーするが、排卵日近くになると毎日オナニーをするということがわかった。

オレは半分狂っている。そう思うだけの自覚はまだあった。

しかし、オレと妹の仲があるキッカケで決定的に進展することになった。
オヤジの転勤だった。それまでに妹のオナニーシーンを収録したビデオは20本近くになっていた。

オヤジが転勤することになった。札幌だ。再婚してまだ一年足らず。だけど妹は受験があるので、結局、オヤジが単身赴任することになるけれど、週末は母が札幌へ行くことになった。
ま、二人も子供がいないところでいろいろしてるんだろうけど。

妹のオナニーをずっとずっと身にたーしていたオレは限界に来ていた。そのころになると、妹はおまんこにボールペンを挿入するようになっていた。たぶんレディコミの記事で「細いモノなら、処女膜を傷つけない」というヤツ読んだのだろう。

そう、オレはあれから妹の部屋で増えていくレディコミのチェックもしていたのだった。

実際、処女膜は「膜」ではなくて、ちょっと粘膜がもりあがっているといった程度のもので、ボールペンくらいの細さなら通過してしまうらしい。第一、完全に膜なら生理の血はどこから出てくるのだ?

……本題からそれてしまった。

オレは妹を犯すことにした。悪魔に魂を売った。

妹が寝たことをいつものようにモニターで確認した。もう半年以上モニターしているからどのくらいの時間で妹が熟睡するのかわかっていた。生理が終わってすぐのころだと思う。
オレは皮手錠とロープを持って、妹の部屋に行った。
もちろん、週末、親がいない土曜の夜だ。

オレがなぜ皮手錠なんか持っているのかというと、オレはSで彼女にも調教をしているからだ。おまんこの毛は完全に剃毛してあるし、露出プレイもするくらいだ。

ま、それは今はどうでもいい。

清楚なのにオナニーする当時15歳の妹をオレは犯すつもりで妹の部屋に行った。

妹の部屋に入る。豆球をつけたままなので意外に部屋は明るい。オレはゆっくりと妹の両腕に皮手錠をつけた。手錠といっても分離するタイプのものだ。それぞれの手首に装着したあとロープでそれを結ぶ。ロープをベッドの頭側にある棚の後ろを通すと、妹はバンザイをしたかっこうになる。自分では外すことができない。

軽くキスをする。ペロペロとなめ回す。なめ回しながら、ゆっくりと胸を揉み始める。
Tシャツをまくりあげるとピンク色だと思う乳首が見えた。

なめる。舌でねぶり、吸い、軽く噛む。

「う〜ん……」

熟睡してるにしても敏感なのだろう。掛け布団をすべてはぐ。下はパンティだけだった。
ゆっくりとパンティを脱がせていく。おまんこが、妹のおまんこが見えてきた。
立派な毛を生やしたまんこだ。
少し足を開かせてその間に身体を沈め、両手はおっぱいを揉みながらクリトリスをナメ始めた。

妹のクリトリスの皮をめくり、舌でチロチロする。するとすぐにおまんこからドロリとした透明な液が出てきた。無意識でもこういう反応はすると聞いたことがあるけれど、それはおびただしい量だった。

15歳の美少女のたぶん処女のおまんこをぺろぺろ舐めていると22歳の彼女のまんこをなめているときの数倍に興奮でオレのちんぽは破裂しそうになっていた。

「……ん、、、、???」

ぺろぺろと舐めているとついに。

「んあ? あうっ、あん! なに? なになに? あうっ」

妹が起きた。起きることも計算ずくだった。
「え? あれ? なに?」

妹が頭を上げる、まだよくわかってないらしいが、Cカップのおっぱいを激しく
もみしだかれ、おまんこをすいあげているのがオレとわかったようだ。目線が
交錯した。

「お、お兄ちゃん! な、なにしてるの! ヤダ! やだやだやだーーー」

無言で舐める。

「ちょっと、やめて! なにしてるの! あ、あれ?」

妹が腕を動かそうとして縛られていることに気付いたようだ。

「お前、好きなんだろ? こういうの」
「なにいってるの? やめて! あっ」

おまんこを舐めるのを中断して身体をせりあげ、おっぱいをはげしく吸い上げる。
「ほら、見てごらん」
「いやーーー、やめてやめてやめて! お兄ちゃん、私たち、こんなことしたらいけないよ、お母さんが……」
「お母さんは札幌だよ。今は二人きりだ」
「いやっ、やめてっ、お願い!」
「じゃあ、お兄ちゃんの言うことを聞くか?」
「聞くから、なんでも聞くからやめて!」
「じゃあ……」
オレは体勢を変えて妹の顔の前にペニスをつきつけた。
「なめるんだ」
「そ、そんなこと、できない……」
「じゃあやっちゃうぞ」
「やる?って」
「セックスするぞ」

「いやいやいやいや、そんなのやめてっ」
「じゃあ、なめるんだ」

妹の唇にチンポをつきたて、激しくイマラチオする。
「むふっ、あふっ、むふっ」
3分くらいそんなことしていたら妹がむせたので抜く。

「ゲホッゲホッ……。お、お兄ちゃん、なんで? なんでこんなことをするの?」
「お兄ちゃんの質問に答えるんだ」
「な、なに?」
「今やったみたいに、男のチンポを舐めたことがあるのか?」
「そ、そんなことしたことないよぉ」
「本当だな」
「ね、もうやめて」
「まだだ」
「私たち、兄妹なんでしょ。兄妹はこんなことしちゃいけないよっ」
「オレのことをネタにして、そんなこと言えるのか?」
「えっ?」
「美穂、お兄ちゃんの質問に答えるんだ。スリーサイズは?」
「そ、そんなこと恥ずかしいよ」
「いわなきゃ、犯すぞ」
「いやいや、言うからっ。……胸は85くらい、あとは……56で82くらい」
「ブラのカップは?」
「そんな恥ずかしいこと言えないっ」
「言わなくてもブラを調べればわかるんだぞ」

実は知っていた。妹が風呂に入っているときに調べていたのだ。妹は65のDカッ
プになっていた。1年でCからDになっていた。Dカップの中学3年なんて犯罪だ。
だが、その犯罪的な巨乳がオレを狂わせる。

「Dカップです……、ね、お兄ちゃん、もうやめよ、ね?」
「美穂はオナニーでイくときは、いつもオレのことを思ってるんだろ?」
「なに? なんのことかわかんない」
「そんなこと言うと……」
美穂のおマンコに指をはわせるとそこは大洪水になっていた。

「あうっ、いやんっ、だめっそんなところ触らないでぇ」
「もういっぱい舐めてるよ」
「お兄ちゃんは、知ってるんだ、美穂が淫乱なこと」
「なんのこと? 美穂、知らない」
「美穂は縛られてレイプされるのが好きなんだな」
「そんなのイヤっ」
「だったら、このベットの下にあるレディコミは、なんだ?」
「……、お、お兄ちゃん、知ってたの?」
「半年以上前からな」
「ひどいっ、美穂の部屋に入ってたなんて」
「美穂だって、オレのことを……」
「知らないっ」
「そんな態度を取るのなら……」

オレは美穂の足をぐっと押し開いた。
「いやっ、やだやだやだぁぁぁ」
しかし、そのままオレは美穂のおまんこにペニスを突き入れた。

「いたぁぁぁぁぁいぃぃぃーー、やめてええ、いやいやいやいやっ」

一気に処女膜を貫いた」

「お願い、抜いて、抜いてぇぇぇぇ」

そんなこえを無視して激しく激しく出し入れしつつ、クリトリスももてあそぶ。
「おにいちゃあん……」
妹は縛られたまま、オレのペニスに陵辱された。嫌がっているのに顔が上気し
ていて、乳首がピンと立っている。

「お願いっ、もうやめてっ、速く出してっ」

その言葉で折れはいきそうになったので妹の腹の上に放出した。
腹の上のつもりだったがものすごい量が出た。顔にまでとんだ。

果てたあとなのに、オレのペニスは固いままだった。
精神が興奮するとこうなると聞いていたが、実際にこうなるとびっくりする。

しかし、ペニスには妹の処女の血がついていた。それを見るとなんだかそれ以上のことができなくなった。

オレは妹の横に添い寝をして顔や胸に舌をはわせまくった。1時間以上「やめてぇ」「お兄ちゃんは知ってるんだ」「なにを?」「それは今は言えない」という言葉を繰り返した。

そして、再び、妹のまんこに突き入れた。

「お前をレイプしたかったんだ。犯したかったっ」
「こんなのいやぁぁ」
「お兄ちゃんは知ってたんだ。いやらしいレディコミでオナニーしてることも。
ボールペンを入れたり指でしたり」
「な、なんでお兄ちゃん、知ってるの??」
「全部見てた。イくときに、カズヤにいちゃんっ!て叫んでいくこともな」
「……。恥ずかしいっ」

「どうやって見てたの?」
「天井にカメラを据え付けていたんだ」
「……ひどいっ、ひどいひどい」
「本当にそう思ってるのか? ぞくぞくって感じてるくせに」
「そ、そんなぁぁぁ、ちがう、ちがうよぉ」

そうはいいながら最初とは明らかに違って、妹は感じていた。鼻に抜ける甘い
声がそれを物語っていた。

「そうだ、美穂、お前は処女だったのか」
コクンとうなづく妹。
「それはよかった。美穂、お前の処女喪失の一部始終をすべて録画できたよ」
「……えっ」

そう、むろんオレは妹の部屋へ行く前にビデオを録画状態にしておいたのだった。

鬼畜な兄である。
妹を犯したあとも、夜は長かった。
俺はローターを持ち込んでいた。恋人に使っているやつだ。

へなへなになっている妹にローターを使った。

クリトリスに。


「あああああーーーーっ」

妹は、美穂は、腰を跳ねるように動かしたけれど、押さえ込んでじくりとクリを陵辱した。
「お兄ちゃんもねえ、やめてっ、やめてぇぇぇぇ」

もうすでにクリで快感を知っていた美穂は簡単にイッてしまった。

妹にローター責めをしまくる。女性には一度イくと無反応になるタイプと何度でも大丈夫なタイプがいるけれど、妹は後者だった。
何度も、何度も、妹は機械の振動で絶頂に達していた。

奥菜恵のような清純なルックスなのに、豊満なバスト、しかも乳首はピンピンに立っている……。そんな妹を快感の虜にすることで両親へのちくりを防御することにしたのだ。

快感は麻薬だ。一度、経験させると忘れられなくなる。

何十回も妹は、
「おにいちゃんやめてぇぇ、ああ、いくぅぅ」
「お願い、なんでもするから、ぶるぶるするの、やめてぇぇ」
「ふつうの、ふつうのほうがいいのっっ」

と言いながらもいやらしい局部から愛液を吐き出させていた。

「おにいちゃんのもののほうがいいのか?」
「……はい」
「どうしてほしいんだ?」
「そ、そんなこと、言えない」
「いわないと……」
「あ、あ、ごめんなさい、言います。おにいちゃんのおちんちんのほうがいいです……」
「ちゃんと言うんだ。美穂のいやらしいおまんこにおにいちゃんの太くて長いチンポ入れて、って」

「そ、そ、そんなこと、いえないっ」

「じゃあ……」

再びローターをクリにあてつつ、乳首を軽く噛んで妹をいたぶる。

「お、に、い、ちゃんんんん、言いますぅぅぅ、、、美穂の、美穂の、お、お……やっぱり言えない」

俺は冷酷に言う。
「じゃあ、おしおきだ」

「あああああっっっっ、だめぇぇぇ」

また、美穂はイッてしまった。こんなに簡単にイッてしまわれるとなんとなくやりがいがなくなる。だけれど、さらに、妹をいじめた。一晩に100回イカせてやる。

「ご、ごめんなさい、言いますっ…………みほの、美穂の、いやらしい……お、おま……あああ」

「……おしおきだ」

「あああああっ、ごめんなさいっっっ」

「み、美穂のいやらしいお、おまんこに、おにいちゃんのチンポ入れて!」
「声が小さいよ。もう一度」
そう言いながら、妹のクリトリスにローターを押し当てる。

「あああああっ、ごめんなさい、言います、言いますぅ……、み、美穂のぉぉぉ、いやらしい……
お、お、おまんこに、おにいちゃんのチンポ入れてぇぇぇぇ」

美穂はまたイッてしまった。もう何回イッたんだろう。

バンザイのまま拘束した美穂のカモシカのような両足をぐいとおしひろげ、ギンギンに高まった
ペニスをズサリと差し込んだ。

「!!!!……ああっ」

Cカップの乳房を激しくもみしだきながら、乳首を吸い、ねぶり、噛みながらピストンする。

「お、おにいちゃん、痛い、痛いよぉぉぉ」

「あと2,3回しないと痛いままだぞ。お兄ちゃんが痛くならないまで教えてもいいぞ」

「えっ、あっあっあっ、そ、そんな、こんなことお母さんに知られたら」

「俺は秘密にする。美穂さえしゃべらなければいいんだ。それに、美穂、美穂はお兄ちゃんが嫌いか?」

「……」

「答えてごらん」
そう言いながら、激しくピストンしつつ、ローターをクリに押し当てる。

「あああ、お兄ちゃん、ごめんなさい、好きっ、美穂はお兄ちゃんのこと好きぃぃぃ」

ペニスが入っていたからかどうかわからないが、美穂はまたイッてしまった。
美穂とはその日あと一回セックスをした。

かわいい妹の全裸を見ていると不思議に萎えない。死ぬまで犯しつづけてやりたいくらい
美穂は、妹は可憐で羞恥心に満ちていた。

もっと、もっと教え込んでやりたいと、そう思った。

出典:兄弟・姉妹とのエッチ実体験を明るく語るスレ
リンク:http://sakura03.bbspink.com/test/read.cgi/kageki/1004214220/l50

オナニー盗撮 (妹との体験談)

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